「一色義定」の版間の差分

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剛勇に優れ、父・義道と共に[[織田信長]]配下の長岡藤孝(細川藤孝)の奥[[丹後国|丹後]]侵攻を退けたという。天正7年([[1579年]])に義道が自害すると一色家の家督を継承し、[[弓木城]]で残党を率いて織田方に抗戦した。信長の意向もあり抗戦に手こずった藤孝は、[[明智光秀]]の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後国を[[長岡氏]]([[細川氏]])と分割統治した。
剛勇に優れ、父・義道と共に[[織田信長]]配下の長岡藤孝(細川藤孝)の奥[[丹後国|丹後]]侵攻を退けたという。天正7年([[1579年]])に義道が自害すると一色家の家督を継承し、[[弓木城]]で残党を率いて織田方に抗戦した。信長の意向もあり抗戦に手こずった藤孝は、[[明智光秀]]の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後国を[[長岡氏]]([[細川氏]])と分割統治した。


[[中郡 (京都府)|中郡]]・[[竹野郡 (京都府)|竹野郡]]・[[熊野郡]]のいわゆる奥丹後を領した義定(長岡氏は[[加佐郡]]・[[与謝郡]]を領有した)は[[織田政権]]の丹後[[守護]]として天正9年([[1581年]])の[[京都御馬揃え]]にも参加し、織田氏による[[甲州征伐]]にも口丹後の長岡氏(細川氏)と共に参戦している。隣国である但馬国の[[山名堯熙]](氏政)とも親しく旧守護家同士ということで親交を深めていた。姻戚関係にあったともいう。
[[中郡 (京都府)|中郡]]・[[竹野郡 (京都府)|竹野郡]]・[[熊野郡]]のいわゆる奥丹後(現在の[[京丹後市]])を領した義定(長岡氏は[[加佐郡]]・[[与謝郡]]を領有した)は[[織田政権]]の丹後[[守護]]として天正9年([[1581年]])の[[京都御馬揃え]]にも参加し、織田氏による[[甲州征伐]]にも口丹後の長岡氏(細川氏)と共に参戦している。隣国である但馬国の[[山名堯熙]](氏政)とも親しく旧守護家同士ということで親交を深めていた。姻戚関係にあったともいう。


また国許においては弓木城を居城にして城下町を形成し丹後北半国を統治した。天正10年(1582年)の[[山崎の戦い]]では直接の上司である明智光秀に味方する(長岡氏は上司である明智光秀に背く)。
また国許においては弓木城を居城にして城下町を形成し丹後北半国を統治した。天正10年(1582年)の[[山崎の戦い]]では直接の上司である明智光秀に味方する(長岡氏は上司である明智光秀に背く)。

2015年11月3日 (火) 01:01時点における版

一色 義定(いっしき よしさだ、生年不詳 - 天正10年9月8日1582年9月24日)?)は、戦国時代武将。別名は満信、義俊、義有。通称を五郎。

父は一色義道、妻は細川藤孝(幽斎)の娘・伊也(『一色軍記』では”菊の方”)。

経歴

剛勇に優れ、父・義道と共に織田信長配下の長岡藤孝(細川藤孝)の奥丹後侵攻を退けたという。天正7年(1579年)に義道が自害すると一色家の家督を継承し、弓木城で残党を率いて織田方に抗戦した。信長の意向もあり抗戦に手こずった藤孝は、明智光秀の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後国を長岡氏細川氏)と分割統治した。

中郡竹野郡熊野郡のいわゆる奥丹後(現在の京丹後市)を領した義定(長岡氏は加佐郡与謝郡を領有した)は織田政権の丹後守護として天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも参加し、織田氏による甲州征伐にも口丹後の長岡氏(細川氏)と共に参戦している。隣国である但馬国の山名堯熙(氏政)とも親しく旧守護家同士ということで親交を深めていた。姻戚関係にあったともいう。

また国許においては弓木城を居城にして城下町を形成し丹後北半国を統治した。天正10年(1582年)の山崎の戦いでは直接の上司である明智光秀に味方する(長岡氏は上司である明智光秀に背く)。

戦後、天下を掌握しつつあった羽柴秀吉からの義定による謀反企図の報に接し、南丹後の長岡氏によって長岡氏の居城である宮津城内で謀殺された。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も松井康之米田求政率いる軍勢に討ち取られ、弓木城も降伏した。なお、妻・伊也は降伏した際に長岡氏に戻っている。

備考

  • 義定が謀殺された日について、『一色軍記』は本能寺の変以前の2月に殺害されたとしているが、『丹州三家物語』においては9月に殺害されたとしており、また、上宮津盛林寺の「一色満信」の位牌には9月8日と記されている。
  • 伊予高峠城主・石川通清食客となった一色重之は、細川氏の攻撃から落ち延びた義定の三男という伝承がある[1]。重之の子孫は大庄屋として幕末を迎えた。
  • 妙解院殿忠利公御代於豊前小倉御侍帳並軽輩末々共に」では、乗物かき小物頭の真下梶之助を一色義有の子と伝えている。

脚注

  1. ^ 日野和煦西條誌』 巻之十二