「上条城 (尾張国)」の版間の差分
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* [[本丸]]の跡地は個人宅だったが、現在は[[堀]]や[[土塁]]等の遺構を残しつつ本丸を[[月極駐車場]]として活用しており、石碑の建っている少し高いところから城全体を見ることができる。付近には林氏屋敷の母屋が現存している。本丸の脇に林金兵衛の屋敷跡の石碑が2つ建立されている。<ref>かつて上条城跡石碑も存在したが現在は所在不明となっている。</ref> |
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* [[平成]]18年([[2006年]]) [[春日井市]]が調査した際に一部に水田耕土と思われる層位が発見され、水田を埋め立てて上条城が築かれた可能性があるといわれている。現存する北側の堀や土塁は築城当初とは形が異なっていることが確認されたことから、築城後に改修されたと見られている。なお、城域の全容は確認できてない。 |
* [[平成]]18年([[2006年]]) [[春日井市]]が調査した際に一部に水田耕土と思われる層位が発見され、水田を埋め立てて上条城が築かれた可能性があるといわれている。現存する北側の堀や土塁は築城当初とは形が異なっていることが確認されたことから、築城後に改修されたと見られている。なお、城域の全容は確認できてない。 |
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ファイル:上条城母屋.JPG|林氏屋敷の[[母屋]] |
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ファイル:上条城櫓台2.JPG|石碑のある所から望む天守跡 |
ファイル:上条城櫓台2.JPG|石碑のある所から望む天守跡 |
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ファイル:上条城 堀.JPG|本丸、南西の堀 |
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二の丸には北西隅と南隅の2ヶ所に[[櫓]]が、南東に1ヶ所[[虎口]]が設けられていた。本丸を含めた二の丸の規模は東西約150m、南北約180mの27000m<sup>2</sup>ある。 |
二の丸には北西隅と南隅の2ヶ所に[[櫓]]が、南東に1ヶ所[[虎口]]が設けられていた。本丸を含めた二の丸の規模は東西約150m、南北約180mの27000m<sup>2</sup>ある。 |
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地内には[[母屋]]が現存し堀跡は側溝などに利用されており、その大部分は宅地化されている。 |
地内には林氏屋敷の[[母屋]]が現存し堀跡は側溝などに利用されており、その大部分は宅地化されている。 |
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=== 三の丸(佐久間屋敷) === |
=== 三の丸(佐久間屋敷) === |
2014年12月29日 (月) 06:09時点における版
上条城 (愛知県) | |
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土塁と天守台と石垣の一部 | |
別名 | 上條城 |
城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守構造 | 不明 (非現存) |
築城主 | 小坂光善 |
築城年 | 建保6年(1218年) |
主な改修者 | 小坂雄吉 |
主な城主 | 小坂光善、林重之、林盛重、小坂雄吉 |
廃城年 | 天正14年(1586年) |
遺構 | 天守台、石垣、 土塁、堀、母屋、井戸跡、石碑 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | 母屋 |
位置 | 北緯35度14分22.4秒 東経136度59分3.3秒 / 北緯35.239556度 東経136.984250度座標: 北緯35度14分22.4秒 東経136度59分3.3秒 / 北緯35.239556度 東経136.984250度 |
上条城(じょうじょうじょう)は、尾張国春日井郡上条(現在の愛知県春日井市上条町)に存在した日本の城(平城)。
概要
市の中南部に位置し、上条城の東部を内津川、庄内川が南北に流れている。 小坂光善が上条城を築城したのが始まりで、光善は築城した後に近江国へ移り住んでいたが、林重之の代に上条城に戻り、名字を(小坂)から(林)と改姓した。林家は林重之が上条用水を切り開くなど、代々地元の農業の振興に努めたといわれる。 [1]豊臣秀吉により城が廃城になった後も林家はこの地で林重登を初め林金兵衛まで15代に渡って庄屋に従事し、明治時代に至る。
天守台の頂上部には今井兼平と磯城津彦命を奉っていたコンクリート製の祠の土台が残存している。この天守台は天守が取り壊された後に村人を召集したり、水害や戦の際にここの頂上に登って村人に知らせたことから「人呼びの丘」とも呼ばれている。
歴史・沿革
鎌倉・南北朝時代
室町・戦国時代
- 同年、清洲城主の織田信光が家臣の坂井大膳により殺された際、織田信長の兵召集に応じた吉田城主の小坂久蔵は坂井の軍勢により討死した。世継ぎがいなかったので信長は家臣で久蔵の遠縁である小坂雄吉に跡を継がせ、吉田城と上条城城主になった。信長の命令で上条城にやってきた家臣の佐久間氏ら約500人と共に上条城に来た。
- 永禄元年(1558年) 林盛重はここの全ての領地を信長に献上し、信長の支配下になった。盛重は帰農して武士の家系が終わり、林家は代々地元の豪農として活躍した。その後、小坂雄吉は城を規模を大きくするため大改修を行った。この頃の所領は約24000石であった。
- 天正12年(1584年) 小牧・長久手の戦いの際に盛重の息子林重登は池田恒興からの要請をうけて城跡など旧跡を修理して砦を造り、道の案内などをした。小坂雄吉は伊勢国長島に出陣し、小坂雄吉が戻るまで森川権六らが城番をしていた。[2]池田恒興が率いる軍が一時的に徳川家康の本拠の三河国を攻める際に足がかりとしてこの城に入城し二泊した。池田恒興は、後に長久手で徳川家康が率いる軍と衝突して森長可らとともに戦死した。
- 小牧・長久手の戦いの後、豊臣秀吉は自ら兵を卒いて竜泉寺の帰りに林重登の屋敷に来て少しの期間ここに滞在した。慶長年間初期(1596年~1598年)に、秀吉がこの時の礼に重登を春日井郡57ヶ村の総代庄屋に指名し、林家は重登から林金兵衛の代まで大庄屋として勤めた。
明治・大正時代
昭和時代
現代
- 本丸の跡地は個人宅だったが、現在は堀や土塁等の遺構を残しつつ本丸を月極駐車場として活用しており、石碑の建っている少し高いところから城全体を見ることができる。付近には林氏屋敷の母屋が現存している。本丸の脇に林金兵衛の屋敷跡の石碑が2つ建立されている。[3]
- 平成18年(2006年) 春日井市が調査した際に一部に水田耕土と思われる層位が発見され、水田を埋め立てて上条城が築かれた可能性があるといわれている。現存する北側の堀や土塁は築城当初とは形が異なっていることが確認されたことから、築城後に改修されたと見られている。なお、城域の全容は確認できてない。
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林氏屋敷の母屋
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石碑のある所から望む天守跡
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本丸、南西の堀
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本丸、北の堀
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本丸、西の堀
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二の丸、西の土塁、堀跡
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本丸、井戸跡
構造
縄張
城郭の形式は輪郭式平城。本丸を中心として周りを二の丸と三の丸で囲い、土塁を3重に、堀を4重に廻らされていた。三の丸の堀の西側を南北に水路が流れていた。春日井市内では最も古い城で、市の中南部にある春日井駅のすぐ南側に位置しており、城の東部を内津川、庄内川が南北に流れている。城が建てられる以前はゆるやかな傾斜がある湿地帯であったと推測されている。
本丸
長方形の郭で、北西隅に天守、南東に1ヶ所虎口が設けられていた。本丸の規模は東西約75m、南北約50mの約3750m2あり、現在の堀と土塁の比高差は最大で約6mある。本丸跡地に屋敷が建っていたが、建物は取り壊され、石垣や土塁、堀等の遺構を見物するのが可能になった。
本丸部分は月極駐車場になっている。南西隅に石碑があり、堀が残っている。駐車場の南東側の脇に井戸が存在したが現在は残っていない。
二の丸(寄京)
二の丸には北西隅と南隅の2ヶ所に櫓が、南東に1ヶ所虎口が設けられていた。本丸を含めた二の丸の規模は東西約150m、南北約180mの27000m2ある。
地内には林氏屋敷の母屋が現存し堀跡は側溝などに利用されており、その大部分は宅地化されている。
三の丸(佐久間屋敷)
三の丸は上条城の面積の約3分の2を占めており、南東に1ヶ所虎口が設けられていた。規模は東西約370m、南北約340mで周囲と北西から南東に土塁と堀を廻らせていた。弘治2年(1556年)稲生の戦いの際に佐久間氏は三の丸に屋敷を構えていたことから(佐久間屋敷) と呼ばれている。その後、本拠の御器所に戻った。
柴田屋敷
城内に存在したされる屋敷であり、上条城の復元図を見ると本丸から南東の方向に「柴田屋敷」と書かれてある。密蔵院の文章の中に「頼郷[4]城主であった柴田康端が息子の柴田亀千代の病気の祈祷料として上田五反歩を寄進した…」との記事があり柴田康端の屋敷と言われているが詳細は不明である。跡地とされている付近は現在、宅地化されている。
現地情報
所在地
交通アクセス
- 鉄道
- 路線バス
- はあとふるライナー
- 上条町2丁目バス停下車 東へ徒歩約0分(三の丸跡地)
- 自動車道
関連項目
参考文献
- 春日井市教育委員会編著 『春日井の人物』 平成7年3月、P50-70
- 春日井市教育委員会編著 『春日井市誌』 P96-100、138-142、331