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御土居の囲む範囲は南北約8.5km、東西約3.5kmの縦長の形をしている。御土居は必ずしも直線状ではなく、特に西側では数箇所の凹凸がある。全長は約22.5kmである。北端は[[北区 (京都市)|北区]]紫竹の加茂川中学校付近、南端は[[南区 (京都市)|南区]]の[[東寺]]の南、東端はほぼ現在の[[河原町通]]、西端は[[中京区]]の[[山陰本線]][[円町駅]]付近にあたる。また東部では[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]](賀茂川)に、北西部では[[紙屋川]]([[天神川]])に沿っており、これらが堀を兼ねていた。
御土居の囲む範囲は南北約8.5km、東西約3.5kmの縦長の形をしている。御土居は必ずしも直線状ではなく、特に西側では数箇所の凹凸がある。全長は約22.5kmである。北端は[[北区 (京都市)|北区]]紫竹の加茂川中学校付近、南端は[[南区 (京都市)|南区]]の[[東寺]]の南、東端はほぼ現在の[[河原町通]]、西端は[[中京区]]の[[山陰本線]][[円町駅]]付近にあたる。また東部では[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]](賀茂川)に、北西部では[[紙屋川]]([[天神川]])に沿っており、これらが堀を兼ねていた。


御土居の内部を'''洛中'''、外部を'''洛外'''と呼んだ{{要出典|date=2013年7月|title=根拠とする史書は?この説を支持する学術書・学術論文は?}}<!--「建造の目的3」にあるように「(一説に)洛中洛外の境を明瞭にするため」とは言えても「内部を洛中、外部を洛外と呼んだ」とするのは飛躍があるのでは?秀吉の思いとは裏腹に京の文化人は細川幽斎のように旧来の定義が念頭にあったのでは?適切な記述は「一説に、秀吉はこの御土居によって洛中の範囲を定めることを意図したという」ぐらいではないか-->
御土居の内部を'''洛中'''、外部を'''洛外'''と呼んだ{{要出典|date=2013年7月|title=根拠とする史書は?この説を支持する学術書・学術論文は?}}<!--「建造の目的3」にあるように「(一説に)洛中洛外の境を明瞭にするため」とは言えても「内部を洛中、外部を洛外と呼んだ」とするのは飛躍があるのでは?秀吉の思いとは裏腹に京の文化人は細川幽斎のように旧来の定義が念頭にあったのでは?適切な記述は「一説に、秀吉はこの御土居によって洛中の範囲を定めることを意図したという」ぐらいではないか-->。ただし、御土居の内部であっても[[鞍馬口通]]以北は洛外と呼ばれることもあった。
。ただし、御土居の内部であっても[[鞍馬口通]]以北は洛外と呼ばれることもあった<ref>平安京においては京域を限る一条大路、九条大路、東西の京極大路に囲まれた範囲を「洛中」、その周辺を「洛外」と称した。時代を経て京域が変化して必ずしもこの定義が厳密に通用したとは言えないが、御土居によって新たに洛中洛外が定められたとしても市民の間にその定義が通用したとは考えられない。御土居に囲まれていても北部や南部では農村地帯が広がっていたし、西部では金閣寺、仁和寺などが御土居の外に位置した(「建造の目的」3を参照)。</ref>。<!--朱雀大路より東(左京)は「洛陽」で「洛」ですが、西(右京)は「長安」であり、明らかに異なります。-- <!--(←反論)「洛陽」「長安」の呼び名は中国の首都に倣っての雅称にすぎませんでした。例えば「洛中洛外図」は、右京左京を問わず市街地を「洛中」その周辺を「洛外」と称しています。京都に赴くことは「上洛」と言いました。また京都を示す言葉として「京洛」というのはあっても「京長」「京安」はありませんでした。「洛中」は一般的ですが、「長中」「安中」という言葉は聞いたことがありません。鎌倉期末頃から「京中・京外」に代わって多用されるのが「洛中・洛外」であり、左京を指した「洛陽」が語源であっても、この頃「洛」とは左京右京を問わず「京都」を指す言葉でした。-->



京都と諸国を結ぶ街道が御土居を横切る場所を「口」(「出入り口」の意)と呼んだ。現在でも鞍馬口、丹波口、粟田口、荒神口などの地名が残っている。『三藐院記』([[近衛信尹]]の日記)によると御土居建造当時の口は10箇所であった。これら街道に繋がらない洛外への道は御土居によって閉塞され、例えば八坂神社に通じる[[四条大橋]]は撤去され、祇園祭の神輿渡御の経路も変更を余儀なくされた。また清水寺への参詣路に位置した[[五条大橋]](現松原橋)も撤去され、東方への街道があった六条坊門通(現五条通)の位置に新たに架橋された。
京都と諸国を結ぶ街道が御土居を横切る場所を「口」(「出入り口」の意)と呼んだ。現在でも鞍馬口、丹波口、粟田口、荒神口などの地名が残っている。『三藐院記』([[近衛信尹]]の日記)によると御土居建造当時の口は10箇所であった。これら街道に繋がらない洛外への道は御土居によって閉塞され、例えば八坂神社に通じる[[四条大橋]]は撤去され、祇園祭の神輿渡御の経路も変更を余儀なくされた。また清水寺への参詣路に位置した[[五条大橋]](現松原橋)も撤去され、東方への街道があった六条坊門通(現五条通)の位置に新たに架橋された。
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==建造の目的==
==建造の目的==
秀吉自身が御土居建設の目的を説明した文献は現存しないが、以下のような理由が推測されている。
秀吉自身が御土居建設の目的を説明した文献は現存しないが、以下のような理由が推測されている。
===1.防衛===
===防衛===
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期の都市の多くには'''[[惣構]]'''と呼ばれる都市全体を囲む防壁があった。当時の京都は[[応仁の乱]]後の荒廃により上京と下京の2つの町に分裂し、それぞれに惣構があった。秀吉は京都の町を拡大するためこれらの惣構を取り壊し、それに代わる大規模な惣構として御土居を建設したと考えられている。ただし、防衛のみを目的としたにしては以下に述べるような不自然な点がある。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期の都市の多くには'''[[惣構]]'''と呼ばれる都市全体を囲む防壁があった。当時の京都は[[応仁の乱]]後の荒廃により上京と下京の2つの町に分裂し、それぞれに惣構があった。秀吉は京都の町を拡大するためこれらの惣構を取り壊し、それに代わる大規模な惣構として御土居を建設したと考えられている。ただし、防衛のみを目的としたにしては以下に述べるような不自然な点がある。
*御土居の囲む範囲は当時の市街地に比べ極めて広く、西部や北部においては第2次世界大戦後まで農地が広がっていた場所すらある。このため御土居の全長は長くなり、防衛に必要な兵力が多くなる。
*御土居の囲む範囲は当時の市街地に比べ極めて広く、西部や北部においては第2次世界大戦後まで農地が広がっていた場所すらある。このため御土居の全長は長くなり、防衛に必要な兵力が多くなる。
*御土居の上に竹が植えられていたため視界が遮られ、また兵士が御土居の上を移動することが難しい。通常防壁上に作られるような櫓などもない。
*御土居の上に竹が植えられていたため視界が遮られ、また兵士が御土居の上を移動することが難しい。通常防壁上に作られるような櫓などもない。
*絵図によれば、御土居の出入口には何の障害物もなく、当時の城郭で用いられたような侵入者を防ぐ構造が見られない。ただし、盗賊が現れた際、逃亡を防ぐためすばやく口の閉鎖をすることになっていたと『三藐院記』に記す。
*絵図によれば、御土居の出入口には何の障害物もなく、当時の城郭で用いられたような侵入者を防ぐ構造が見られない。ただし、盗賊が現れた際、逃亡を防ぐためすばやく口の閉鎖をすることになっていたと『三藐院記』に記す。
===2.堤防===
===堤防===
御土居の東側は鴨川の西に沿っており、その[[堤防]]としての役割を持っていた。御土居が北へ長く延びているのは、この地域で鴨川が氾濫すると京都市街地へ水が流入してしまうためである。
御土居の東側は鴨川の西に沿っており、その[[堤防]]としての役割を持っていた。御土居が北へ長く延びているのは、この地域で鴨川が氾濫すると京都市街地へ水が流入してしまうためである。
===3.洛中の範囲を明らかにするため===
===洛中の範囲を明らかにするため===
『拾遺[[都名所図会]]』の「'''洛中惣土堤'''」の項に『室町殿日記』から引用・紹介されている説。それによると天正18年ごろ秀吉は[[細川幽斎]]と[[里村紹巴]]を召して「洛中の境」を検分したが、東西南北いずれも明瞭でなかった。そこで秀吉は都の境界を末代まで定めることを思い立ち、平安京の歴史を幽斎に尋ねた。幽斎は「東は京極迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。(中略)''されば内裏は代々少しづつ替ると申せども洛中洛外の境は聊かも違うことなし。''(中略)この京衰え申、ややもすれば戦場となるにつけて、万民跡を止めず都鄙の往来無きによりて自ずと零落す」と答えた。これを聞いて秀吉は'''「さあらば先ず洛中洛外を定むべし」'''と大名に命じ惣土堤を築かせたという。つまり荒れ果てた京都を復興するためまずその範囲を定めようと御土居を建設したことになる。
『拾遺[[都名所図会]]』の「'''洛中惣土堤'''」の項に『室町殿日記』から引用・紹介されている説。それによると天正18年ごろ秀吉は[[細川幽斎]]と[[里村紹巴]]を召して「洛中の境」を検分したが、東西南北いずれも明瞭でなかった。そこで秀吉は都の境界を末代まで定めることを思い立ち、平安京の歴史を幽斎に尋ねた。幽斎は「東は京極迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。(中略)''されば内裏は代々少しづつ替ると申せども洛中洛外の境は聊かも違うことなし。''(中略)この京衰え申、ややもすれば戦場となるにつけて、万民跡を止めず都鄙の往来無きによりて自ずと零落す」と答えた。これを聞いて秀吉は'''「さあらば先ず洛中洛外を定むべし」'''と大名に命じ惣土堤を築かせたという。つまり荒れ果てた京都を復興するためまずその範囲を定めようと御土居を建設したことになる。
===その他の目的===
===その他の目的===

2013年7月27日 (土) 16:02時点における版

史跡御土居、廬山寺内に現存する、京都市上京区

御土居(おどい)は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁である。外側のとあわせて御土居堀とも呼ばれる。聚楽第寺町天正の地割とともに秀吉による京都改造事業の一つである。一部が京都市内に現存し、史跡に指定されている。

位置

御土居の位置( ランドサット衛星写真)

秀吉時代の御土居の位置に関する記録は現存しないが、現存する遺構や江戸時代の絵図からその位置が推定されている。

御土居の囲む範囲は南北約8.5km、東西約3.5kmの縦長の形をしている。御土居は必ずしも直線状ではなく、特に西側では数箇所の凹凸がある。全長は約22.5kmである。北端は北区紫竹の加茂川中学校付近、南端は南区東寺の南、東端はほぼ現在の河原町通、西端は中京区山陰本線円町駅付近にあたる。また東部では鴨川(賀茂川)に、北西部では紙屋川天神川)に沿っており、これらが堀を兼ねていた。

御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼んだ[要出典]。ただし、御土居の内部であっても鞍馬口通以北は洛外と呼ばれることもあった。

京都と諸国を結ぶ街道が御土居を横切る場所を「口」(「出入り口」の意)と呼んだ。現在でも鞍馬口、丹波口、粟田口、荒神口などの地名が残っている。『三藐院記』(近衛信尹の日記)によると御土居建造当時の口は10箇所であった。これら街道に繋がらない洛外への道は御土居によって閉塞され、例えば八坂神社に通じる四条大橋は撤去され、祇園祭の神輿渡御の経路も変更を余儀なくされた。また清水寺への参詣路に位置した五条大橋(現松原橋)も撤去され、東方への街道があった六条坊門通(現五条通)の位置に新たに架橋された。

構造

1920年(大正9年)に京都府が行なった実測調査によると、御土居の断面は基底部が約20m、頂部が約5m、高さ約5mの台形状であった。土塁の外側(西部一条通以南では内側)に沿って堀があり、その幅は10数m、深さは最大約4m程度であった。これら堀の西側の多くは既存の紙屋川を利用し、また東部では鴨川を代用した。土塁のための土は膨大な量が必要だったと推測されるが、どのように調達されたのか未だ解明されていない。

御土居の上にはが植えられていた。また御土居の内部から石仏が出土することがあるが、その理由は不明である。

建造の目的

秀吉自身が御土居建設の目的を説明した文献は現存しないが、以下のような理由が推測されている。

防衛

戦国時代後期の都市の多くには惣構と呼ばれる都市全体を囲む防壁があった。当時の京都は応仁の乱後の荒廃により上京と下京の2つの町に分裂し、それぞれに惣構があった。秀吉は京都の町を拡大するためこれらの惣構を取り壊し、それに代わる大規模な惣構として御土居を建設したと考えられている。ただし、防衛のみを目的としたにしては以下に述べるような不自然な点がある。

  • 御土居の囲む範囲は当時の市街地に比べ極めて広く、西部や北部においては第2次世界大戦後まで農地が広がっていた場所すらある。このため御土居の全長は長くなり、防衛に必要な兵力が多くなる。
  • 御土居の上に竹が植えられていたため視界が遮られ、また兵士が御土居の上を移動することが難しい。通常防壁上に作られるような櫓などもない。
  • 絵図によれば、御土居の出入口には何の障害物もなく、当時の城郭で用いられたような侵入者を防ぐ構造が見られない。ただし、盗賊が現れた際、逃亡を防ぐためすばやく口の閉鎖をすることになっていたと『三藐院記』に記す。

堤防

御土居の東側は鴨川の西に沿っており、その堤防としての役割を持っていた。御土居が北へ長く延びているのは、この地域で鴨川が氾濫すると京都市街地へ水が流入してしまうためである。

洛中の範囲を明らかにするため

『拾遺都名所図会』の「洛中惣土堤」の項に『室町殿日記』から引用・紹介されている説。それによると天正18年ごろ秀吉は細川幽斎里村紹巴を召して「洛中の境」を検分したが、東西南北いずれも明瞭でなかった。そこで秀吉は都の境界を末代まで定めることを思い立ち、平安京の歴史を幽斎に尋ねた。幽斎は「東は京極迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。(中略)されば内裏は代々少しづつ替ると申せども洛中洛外の境は聊かも違うことなし。(中略)この京衰え申、ややもすれば戦場となるにつけて、万民跡を止めず都鄙の往来無きによりて自ずと零落す」と答えた。これを聞いて秀吉は「さあらば先ず洛中洛外を定むべし」と大名に命じ惣土堤を築かせたという。つまり荒れ果てた京都を復興するためまずその範囲を定めようと御土居を建設したことになる。

その他の目的

寺社勢力との分断

中世の京都では延暦寺八坂神社など周辺の寺社が大きな影響力を持っていた。御土居によって洛中と洛外の交通を制限することにより、これらの勢力を削ろうとした、とする説がある[要出典]。ただし当時の延暦寺は信長により力を削がれたままであり八坂神社も天台宗に属していたから同様の状況にあった。本願寺を京都に呼んだり、御土居の内側に寺町を形成するなど、秀吉の宗教勢力に対する警戒心は認められないから、この説は成立しがたい。

美観

ルイス・フロイスの『日本史』によると、秀吉が御土居に樹木(竹)を植えさせたのは美観のためであった。一方、中国の「羅城」に倣って都の四周を土塁で囲んだとの見方もできる。[要出典]

歴史

建造

御土居の建造が始まったのは1591年天正19年)の1月から閏1月(太陰暦)ごろである。同年の3月ごろにはほぼ完成していた、との記録がある[要出典]。当時の京都では東山大仏、寺町など多くの工事が並行して行なわれていた。

江戸時代

豊臣政権が崩壊すると、道路を分断していた部分の御土居が取り壊され多くの出入口が設けられた。たとえば現在の四条河原町付近で四条通を塞いでいた部分は1601年慶長6年)に撤去されている。また市街地東部では、木屋町先斗町など御土居の東側の鴨川河原まで町が広がり、1670年寛文10年)に寛文新堤が完成して堤防としての必要もなくなったため、御土居は寺社や公家に払い下げられ、取り壊されて住宅地などになった。 ただし、これらを除く部分の御土居は多くが残り、幕府によって竹林として管理されていた。江戸時代中期には角倉家(すみのくらけ)が管理を担当していた。

御土居は取り壊されるだけとは限らず、移築されることもあった。1641年寛永18年)に始まる東本願寺の新たな寺内町の開発に伴い、御土居は高瀬川とともに東側に移された。枳殻邸(渉成園)の築山の位置は移築前の御土居に重なるから、土塁を再利用したと考えられている。

明治以降

明治に入ると、それまで幕府の所有していた部分も民間の所有となり、土塁上の竹を伐採して畑などに転用された。この時点では土塁自体は取り壊されていなかったが、大正期には市街地の拡大により住宅開発などのため、多くの場所で御土居が壊された。こうした中、残る御土居を保護するため、1930年(昭和5年)に8箇所が国の史跡に指定された。また1965年(昭和40年)に1箇所が追加指定されている。史跡指定地以外ではその後も撤去が進み、1960年代には史跡指定地の御土居が宅地造成業者によって破壊される事件が何度か起こった。今なお「土居町」の地名が市内各所に残るが、いずれも御土居消滅後の土地に出来た町と考えられる。


脚注

御土居の跡

御土居遺構の位置

遺構

1930年(昭和5年)史跡指定

  • 北区紫竹上長目町・堀川町(加茂川中学校敷地など)
  • 北区大宮土居町
  • 北区鷹峯旧土居町2番地
  • 北区鷹峯旧土居町3番地(御土居史跡公園)
  • 北区紫野西土居町
  • 北区平野鳥居前町
  • 上京区北之辺町 (廬山寺
  • 中京区西ノ京原町 (御土居上に市五郎神社社殿)

1965年(昭和40年)史跡指定

これら指定地以外にも、北野中学校校庭(中京区西ノ京中保町)や大宮交通公園(北区大宮西脇台)に御土居が残っている。

地名・道路・地割

御土居北端部の航空写真。御土居跡に沿う道路が見える。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

北区大宮土居町、鷹峯旧土居町などは御土居の跡がそのままひとつの「町」となったため、細長い形をしている。中京区東土居ノ内町、土居ノ内町、西土居ノ内町などの地名、また下京区の土手町通、中京区の西土居通といった通り名も御土居に由来する。南区にはバス停「御土居」があり、北区の「大宮交通公園」バス停はかつて「大宮御土居」といった。

中京区と右京区、上京区と北区の区境の一部は御土居の線と一致する。また御土居に沿った線が道路となって残っている例もある。

京都駅0番ホーム

『JR京都駅の0番のりば(旧1番線)のホームは御土居の盛土を利用したものである』と書籍などで紹介されることがあるが、これは誤りである。このホームは1914年(大正3年)の2代目京都駅開業時に作られたものだが、それ以前の明治時代の地図でも御土居は描かれていない。また駅の位置にあった東塩小路村の記録によると、1877年(明治10年)の鉄道開通に先立ちこの地域の御土居は取り壊されたという。なお、1993年(平成5年)に行なわれたホーム西端での発掘調査で、堀の跡と思われる泥土層が見つかっている。

参考文献

  • 中村武生 『御土居堀ものがたり』 京都新聞出版センター、2005年。

関連項目

外部リンク