「三佛寺」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Reggaeman (会話 | 投稿記録)
札所、画像追加
Reggaeman (会話 | 投稿記録)
100行目: 100行目:
File:Sanbutsuji 07.JPG|文殊堂(国の重要文化財)
File:Sanbutsuji 07.JPG|文殊堂(国の重要文化財)
File:Sanbutsuji 09.JPG|地蔵堂(国の重要文化財)
File:Sanbutsuji 09.JPG|地蔵堂(国の重要文化財)
File:Sanbutsuji 10.JPG|鐘楼(文化財)
File:Sanbutsuji 10.JPG|鐘楼(文化財)
File:Sanbutsuji 11.JPG|納経堂(国の重要文化財)
File:Sanbutsuji 11.JPG|納経堂(国の重要文化財)
File:Sanbutsuji 12.JPG|観音堂と元結掛堂(共に文化財)
File:Sanbutsuji 12.JPG|観音堂と元結掛堂(共に文化財)
File:Sanbutsuji 14.JPG|正善院
File:Sanbutsuji 14.JPG|正善院
File:Sanbutsuji 15.JPG|輪光院
File:Sanbutsuji 15.JPG|輪光院

2013年6月24日 (月) 13:00時点における版

三仏寺

投入堂(国宝)
所在地 鳥取県東伯郡三朝町三徳1010
位置 北緯35度23分57.55秒 東経133度57分20.74秒 / 北緯35.3993194度 東経133.9557611度 / 35.3993194; 133.9557611
山号 三徳山(みとくさん)
宗派 天台宗
本尊 釈迦如来阿弥陀如来大日如来
創建年 (伝)嘉祥2年(849年
開基 (伝)慈覚大師
正式名 三徳山 三佛寺
札所等 中国三十三観音霊場31番
伯耆観音霊場29番
中国四十九薬師43番(皆成院)
文化財 投入堂(国宝)
文殊堂、地蔵堂、納経堂ほか(重要文化財)
三徳山(史跡・名勝)
法人番号 4270005004429 ウィキデータを編集
テンプレートを表示

三仏寺(さんぶつじ)は鳥取県東伯郡三朝町にある天台宗仏教寺院。山号を三徳山(みとくさん)と称する[1]

開山は慶雲3年(706年)に役行者が修験道の行場として開いたとされ、その後、慈覚大師円仁により嘉祥2年(849年)に本尊釈迦如来阿弥陀如来大日如来の三仏が安置されたとされる。[2]

鳥取県のほぼ中央に位置する三徳山(標高900メートル)に境内を持つ山岳寺院である。古くは三徳山全体を境内とした。「投入堂」(なげいれどう)の通称で知られる奥院の建物は、垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた他に類を見ない建築物で、国宝に指定されている。また、三徳山は昭和9年(1934年7月7日に国の名勝史跡に指定された。

歴史

伝説時代

草創の時期や事情についてははっきりわかっていない。近世の地誌『伯耆民談記』によれば、慶雲3年(706年)、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ、役行者)が子守権現勝手権現蔵王権現の三所権現を祀ったのが始めとされている。役小角は伝説的要素の多い人物であり、この伝承を文字通り信じることはできないが、三徳山(近世以前は「美徳山」と書くことが多い)は、同じ鳥取県所在の大山(だいせん)や船上山と同様、山岳信仰の霊地として古くから開けていたことが想像される。なお、子守権現、勝手権現、蔵王権現はいずれも奈良県の吉野山(修験道の霊地)に祀られる神である。前出の『伯耆民談記』によれば、嘉祥2年(849年)慈覚大師円仁が釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三仏を安置して「浄土院美徳山三佛寺」と号したというが、この説も伝承の域を出ないものと思われる。

中世以降

平安時代末期頃までの寺史はあまりはっきりしていないが、現存する奥院(投入堂)の本尊・蔵王権現像の像内に納められていた文書には仁安3年(1168年)の年記があり、奥院の建物自体も様式上平安時代後期にまでさかのぼるもので、この頃には山岳修験の霊場として寺観が整っていたものと思われる。中世以降、文書、記録等に「美徳山」の名が散見されるが、「三佛寺」の寺号が文献に現われるのは江戸時代中期以降である。

近世に入って、慶長4年(1599年)には近隣の坂本村(三朝町坂本)のうち百石が三仏寺に寄進され、寛永10年(1633年)には鳥取藩池田光仲から百石を寄進。これらの寺領は幕末まで維持された。天保10年(1839年)には池田斉訓が本堂を再建するなど、近世を通じて鳥取藩主の庇護を受けた。

山内

伽藍は山下と山上に分かれる。山下には本堂、宝物殿のほか輪光院、正善院、皆成院(かいじょういん)がある。かつては多くの子院が軒を連ねたというが、現存するのは上述の3箇院のみである。現存する3つの子院は宿坊を併設しており、宿泊が可能である。

投入堂への道

投入堂への登山道・岩場
投入堂への登山道・かずら坂の木の根道

奥院である投入堂へは、本堂裏手の登山事務所で入山受付を行う必要がある[3]。 三仏寺では投入堂への入山はあくまでも観光ではなく修行であるとしており、三仏寺拝観料とは別にここで入山料を支払い入山届に記入した上、貸与された「六根清浄」と書かれた輪袈裟を身につけ、すぐ裏の宿入橋から山道を登ることになる。投入堂への山道は非常に険しく、登山に不適当な服装や靴を着用している者は入山を拒否されることがあり、特に女性のスカート姿は厳禁。また、底面にスパイクがついたものも禁止されている。深い溝のついたゴム底の靴であれば良い。本堂裏の登山事務所では、登山に不適当な靴を履いて来た参拝者のために有料でわら草履を販売している。この他、汚れてもかまわないような動きやすい服装や登山に適した靴、岩や木の根を掴むための手袋軍手)をあらかじめ準備することが望ましい。また、登山道には水場がないために水筒等の装備も準備しておいた方が良いが、途中トイレもないので最初から水分を摂り過ぎても良くない点も注意。登山事務所には飲料の自動販売機、男女兼用のトイレがある。このような三仏寺の厳しい対応にもかかわらず、滑落事故はあとを絶たないため現在では一人での入山は拒否されている[4][5]。 下山時には登山事務所でたすきを返納し下山時間を入山届に記入することにより、入山者の下山の確認を行い不慮の事故に備えている。

投入堂へ向かう途中には野際稲荷文殊堂、地蔵堂、鐘楼堂、納経堂、観音堂、元結掛堂、不動堂などが建つ(文殊堂、地蔵堂、納経堂は重要文化財、他は鳥取県指定保護文化財)。いかにも山岳信仰の中心地らしく、山の麓から投入堂までの道程のうち、特に麓から鐘楼までは、起伏に富んだ自然の山道がほとんど改良されることなく、以前のままの状態で残されているため、非常に過酷な部分が多い[6]

本堂裏の宿入橋からの高低差200メートル、全長ほぼ700メートルの行程は全て難所と言ってよく[7]、ところによっては鉄のロープ、時にはむき出しになっている木の根だけを頼りにしがみついて、その都度足場を確保しながら登り下りすることになる。なお、難所は下りの方がはるかに通過困難になることは留意すべきである[8]

投入堂

投入堂をほぼ同一の高さから撮影。縁下の柱は桁行方向に5本立てられている。内側の身舎部分の柱は太い円柱となる。
投入堂。左手奥にわずかに見えるのが愛染堂である。

国宝。平安時代後期の建立。国宝指定名称は「三仏寺奥院(投入堂)」である。愛染堂、棟札1枚、古材43点[9]が国宝の附(つけたり)として指定されている。永和元年(1375年)の修理棟札によると、当時は「蔵王殿」と呼ばれていた。

投入堂は、前述の険しい山道を登った先、三徳山の北側中腹の断崖絶壁の窪みの中に建てられ、堂の上方は岩壁がオーバーハングしている。堂が建っている場所は文字通りの絶壁で、参拝者は堂を斜め上方に見上げる地点までは立ち入りができるが、堂に近付くことは危険なため固く禁止されている。投入堂に近付こうとして滑落死した者もいるという。

屋根形式は神社本殿に多く見られる流造(切妻屋根の正面側の軒を長く伸ばし、側面から見ると「へ」の字形に見える屋根形式)である。屋根は庇も含め檜皮葺き、平面は桁行(間口)一間、梁間(奥行)二間とする(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す)。ただし、桁行背面は中央にも柱が立ち、二間とする。このうち、奥の桁行一間×梁間一間を横板壁で仕切って身舎(もや)とし、身舎の前面から西面(向かって右)にかけて、高欄付きの縁を鍵の手にめぐらす。流造屋根の左右に庇を付し、向かって右の庇は前述の縁の一部、左の庇は愛染堂との取り合い部を構成する。北西側(向かって右手前)には一段低く縋破風(すがるはふ)を付す。平面規模は、縁の部分を含めて、正面が5.4メートル、奥行が3.9メートルである。柱は側柱(外回り)を角柱、身舎部を太い円柱とする。角柱は断面が八角形に近い大面取りとするが、これは平安建築の特色である。組物は簡素な舟肘木である。身舎は正面と西側面に両開きの板扉を設け、天井は格天井とする。身舎の奥寄りの部分は床を一段高く造り、かつてはここに7体の木造蔵王権現立像(いずれも重要文化財)が安置されていたが、今は山下の収蔵庫に移されている。庇柱は縁の下に長く伸びて崖の斜面に達し、地形にしたがって各柱の長さを違えている。縁下の庇柱間は筋違(すじかい)という斜材を入れて補強している。

投入堂の東(向かって左)には小規模な愛染堂が付属する。愛染堂は桁行一間、梁間一間、切妻造、檜皮葺きで、投入堂側の西面に両開きの板扉を設ける。投入堂と愛染堂の取り合い部には一段低く床を張る。投入堂の縁の東端は格子でふさがれており、投入堂・愛染堂間の行き来はできなくなっている。

投入堂の写真から明らかなように、堂の正面・側面のいずれにも入口はなく、特別に許可されて入堂する者は、崖伝いに堂の床下を通って背面から縁に這い上がるしかない。

上記のように立ち入りが禁じられている投入堂であるが、2007年11月14日には約100年ぶりの修復を記念し、1日限り3人のみの拝観が認められた[10] [11]

日本建築史上他に例を見ない特異な建造物であるとともに、屋根の軽快な反り、堂を支える長短さまざまな柱の構成など、建築美の観点からも優れた作品である。建造時期については、様式上平安時代後期と言われてきたが、確実な史料がなく、修験道の開祖、役小角がその法力でもって建物ごと平地から投げ入れたという伝承が語り継がれていた(「投入堂」の名称はこの伝説に由来する)。2001年(平成13年)~2002年(平成14年)に奈良文化財研究所の光谷拓実らにより行われた、年輪年代測定法による研究調査の結果、内部に安置されていた木造蔵王権現立像ともども、平安時代後期に当たる11世紀後半から12世紀前半に伐採された木材が使用されていることが判明。そのことから建造時期もほぼ同じ頃と推定され、現存する神社本殿形式の建築物では日本最古級のものであることが科学的にも裏付けられた。ただし建立のくわしい経緯までは現時点で明らかになっていない。創建以来たびたび修理され、多くの部材が取替えられている。大正4年(1915年)の修理では、庇柱のうち西北隅の柱(向かって右手前)と、そのすぐ南側の柱が取り替えられた。2006年には屋根葺き替えを主とする保存修理が行われた。この時の窪寺茂(建築史家)による調査で、柱などの主要構造部材が朱、壁は白で彩色されていたことが判明した。[12]

2001年6月1日より、投入堂のある三朝町や鳥取県の主導で、ユネスコ世界遺産への登録を目指す活動が開始された[13]

投入堂を近くから見るためには、前項にあるように厳しい山道を辿る必要があるが、麓の車道からも投入堂を遠望できる場所があり、「投入堂遥拝所」として駐車場や無料の望遠鏡が完備されている。

文化財

国宝

奥院(投入堂)
解説は前出。

重要文化財

文殊堂
室町時代後期。入母屋造、杮(こけら)葺き。奥院への道筋の山中に建つ。内部は通常非公開だが、2006年に草創1,300年を記念して地蔵堂とともに公開された。従来桃山時代の建築とされていたが、新たに永禄10年(1567年)の墨書が堂内から見出されたことから、建築年代は若干上がるものと思われる。
地蔵堂
室町時代後期。入母屋造、杮(こけら)葺き。奥院への道筋の山中に建つ。
納経堂
平安時代後期。鎮守神を祀った春日造の小社を流用したもの。従来鎌倉時代の建築とされていたが、用材の年輪年代測定の結果から、平安時代後期にさかのぼることが判明した。
木造蔵王権現立像
(もと奥院安置)- 投入堂正本尊で、現在は宝物殿に安置される。右足を高く上げ、焔髪を逆立てる典型的な蔵王権現像であるが、忿怒の表情は控えめで、全体に平安後期彫刻特有の穏やかな作風になる。像内納入文書に仁安3年(1168年)の年記がある。
木造蔵王権現立像 6躯
投入堂に上記の正本尊像とともに安置されていたもの。6躯の形態や作風はそれぞれ異なっているが、いずれも正本尊像よりは素朴な作風になる。
木造十一面観音立像
(もと観音堂安置) - 重要文化財指定名称は「木造聖観音立像」。頭上の十一面が失われているが、元来十一面観音像として造立されたものである。
銅鏡(中台八葉院鏡像)
長徳3年(997年)銘。鏡面に胎蔵曼荼羅の中心に位置する中台八葉院の諸仏が線刻されている。鏡背文様は花をくわえた2羽の鸚鵡(オウム)である。鏡自体は中国製と見られる。

鳥取県指定保護文化財

  • 本堂 - 江戸時代後期
  • 十一面観音堂(野際稲荷) - 江戸時代中期
  • 鐘楼堂 - 鎌倉時代の部材を残す。
  • 観音堂 - 江戸時代前期
  • 元結掛堂 - 江戸時代前期
  • 不動堂 - 江戸時代後期

画像

札所

  • 中国観音霊場第三十一番
  • 伯耆観音霊場第二十九番
  • 中国四十九薬師霊場第四十三番(皆成院)

前後の札所

中国三十三観音霊場
30 長谷寺 -- 31 三仏寺 -- 特別霊場 摩尼寺

所在地

〒682-0132 鳥取県東伯郡三朝町三徳1010

交通アクセス

  • JR山陰本線 倉吉駅からバス「上吉原」方面行きで40分、「三徳山寺前」下車
  • 拝観は有料。(冬季は登山はできない。4月1日の法要を経て登山可能となる)

周辺

注釈

  1. ^ 宗教法人としての名称は正しくは「三佛寺」であるが、本稿では引用部分を除き「三仏寺」を用いる。
  2. ^ 三佛寺 縁起(三徳山三佛寺公式ページ)による。
  3. ^ 受付時間は8:00~15:00。これ以降の入山はできない。
  4. ^ 日本海新聞:「修行の山」認識を 事故多発の三徳山登山
  5. ^ 日本海新聞:三徳山不明男性が死亡 滑落か、沢で発見
  6. ^ そのためか写真家の土門拳は、自身の著作の中で「投入堂は素晴らしいが、二度と行きたくない」とこぼしている。
  7. ^ 鐘楼から納経堂の間にある「牛の背」「馬の背」と言われる、かつては両側を断崖絶壁に挟まれた岩場をバランスを取りながら渡った難所は、現在は改良が施されそれほどの難所とは言えなくなった。納経堂からは難所もなくなる。
  8. ^ 山歩きに不慣れな者や、運動能力に自信のない者は参拝を再検討した方が無難である。特に行楽期は多数の観光客でごった返し、入山受付で30分~1時間程度待たされることも多く、登山道に行列ができて入山してから投入堂に辿り着くまで1時間~1時間半程度を要することもある
  9. ^ 古材43点の内訳は次のとおり。柱1、舟肘木1、桁1、垂木21、筋違1、地長押1、半長押1、蹴込板(けこみいた)1、縁板1、叉首台(さすだい)1、破風板6、妻幕板1、格子框(こうしかまち)3、格子横子3。
  10. ^ 2007年8月21日、読売新聞、滑落続出で封印の国宝・投入堂、60年ぶりに拝観者公募
  11. ^ 2007年11月14日、読売新聞、絶壁の国宝「投入堂」で決死の参拝、修復記念1日限り
  12. ^ 本節の解説は主に「上野、2009」、pp10 - 14によった。
  13. ^ 2006年文化庁が暫定リスト記載候補を公募した際には、他の23件とともに提案書が提出されたが、審議にあたった世界文化遺産特別委員会は翌年「継続審議」と決定した。

参考文献

  • 上野勝久「三仏寺奥院(投入堂) 蔵王権現を祀った行者のための空間」『週刊朝日百科 国宝の美19』、朝日新聞社、2009

関連項目

外部リンク