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*『八円儀及其用法之記』[[1798年]] - [[コルネリス・ドウエス]]著『Cornelis Douwes: Beshrijving van het Octant』([[1749年]])の日本語訳。
*『八円儀及其用法之記』[[1798年]] - [[コルネリス・ドウエス]]著『Cornelis Douwes: Beshrijving van het Octant』([[1749年]])の日本語訳。
*『鎖国論』[[1801年]] - [[エンゲルベルト・ケンペル]]([[ドイツ人]]、[[1651年]] - [[1716年]]、[[医師]])著『日本誌』([[1727年]])の章の1つ『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』の日本語訳。「[[鎖国]]」という[[言葉]]を生んだ書とされている。
*『鎖国論』[[1801年]] - [[エンゲルベルト・ケンペル]]([[ドイツ人]]、[[1651年]] - [[1716年]]、[[医師]])著『日本誌』([[1727年]])の章の1つ『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』の日本語訳。「[[鎖国]]」という[[言葉]]を生んだ書とされている。
*『暦象新書(上中下)』1798年から[[1802年]] - 原著はジョン・ケイル([[:en:John Keill|John Keill]], [[1671年]]-[[1721年]])の『真正なる自然学および天文学への入門書(Introductiones ad Veram Physicam et veram Astronomiam)』([[1725年]])のオラン語版(1741年)。[[アイザック・ニュートン]]や[[ヨハネス・ケプラー]]の生んだ[[法則]]や[[概念]]、+、-、÷、√といった[[記号]]を日本に紹介し、「[[遠心力]]」、「[[求心力]]」、「[[重力]]」、「[[加速度|加速]]」、「[[楕円]]」という語を生んだ書。<ref><!-- 2010/12/17 11:42の加筆部分に関して -->吉田光邦『江戸の科学者たち』p. 156</ref>
*『暦象新書(上中下)』1798年から[[1802年]] - 原著はジョン・ケイル([[:en:John Keill|John Keill]], [[1671年]]-[[1721年]])の『真正なる自然学および天文学への入門書(Introductiones ad Veram Physicam et veram Astronomiam)』([[1725年]])のオラン語版(1741年)。[[アイザック・ニュートン]]や[[ヨハネス・ケプラー]]の生んだ[[法則]]や[[概念]]、+、-、÷、√といった[[記号]]を日本に紹介し、「[[遠心力]]」、「[[求心力]]」、「[[重力]]」、「[[加速度|加速]]」、「[[楕円]]」という語を生んだ書。<ref><!-- 2010/12/17 11:42の加筆部分に関して -->吉田光邦『江戸の科学者たち』p. 156</ref>
*『二国会盟録』[[1806年]] - ジェルビヨン(フランス人、宣教師)が著した旅行記の日本語訳。
*『二国会盟録』[[1806年]] - ジェルビヨン(フランス人、宣教師)が著した旅行記の日本語訳。
*『三角算秘傳』 - 「[[球面三角法#ネイピアの法則|ネイピアの法則]]」を日本に最初に紹介したとされる書。
*『三角算秘傳』 - 「[[球面三角法#ネイピアの法則|ネイピアの法則]]」を日本に最初に紹介したとされる書。

2012年9月3日 (月) 10:32時点における版

志筑 忠雄(しづき ただお、宝暦10年(1760年) - 文化3年7月3日1806年8月16日))は、江戸時代長崎蘭学者阿蘭陀稽古通詞(のち辞職)。

概要

天文物理、地理誌、海外事情、オランダ語、オランダ文法学等の分野で著述を成した。

本姓中野氏、通称忠次郎、字季飛。名をはじめは盈長、後に忠雄とし、柳圃と号した。養父孫次郎の養子として阿蘭陀通詞志筑本家8代を継いだが 、生家の中野家がいかなる家だったのかについては不明な点が多い。志筑の経歴については長年、『長崎通詞由緒書』の情報をもとに、阿蘭陀通詞志筑家の養子となり、安永5年(1776年)には稽古通詞となったが、その翌年病身を理由に辞職し、阿蘭陀通詞で西洋天文学に精通していた本木良永に師事したと信じられてきた[1]。近年の研究成果によって、志筑は少なくとも天明2年(1782年)まで稽古通詞を務めていたことが究明された[2]。また、天明6年(1786年)5月まで同職を務めていた可能性も指摘されている[3]

生涯にわたって蘭書翻訳に熱中する一方で、多病であったようである。大槻玄幹1785年 - 1837年)、杉田玄白新宮凉亭1787年 - 1854年)らの諸著述において、志筑は若くして病気を理由に阿蘭陀稽古通詞を辞し、隠居して人との交わりをできるだけ絶ち、およそ政治や現実問題とは無縁な生き方をしながら蘭書に没頭する人物として描かれている。

彼の著作は主に写本で伝わり、現在までに確認されているものは50点近くにのぼる[4]。それらは、いつ成立したのか、いつ写されたのかが不明のものが多い。著作の半分近くは西洋天文・物理学関係の蘭書からの翻訳で、次に多いのがオランダ語・文法に関するもので約3割を占める。前二者に比べると数は多くないが、地理、海外事情に関する翻訳も認められる。その訳述の内容と豊富さから西洋科学に対する志筑の熱意が感じとられるが、一方でエンゲルベルト・ケンペル日本誌』のオランダ語第二版(1733)の巻末附録の最終章を訳出した写本「鎖国論」(1801)に志筑が付した注釈には排外的な側面も見られ、矛盾葛藤する両面を見せている。

ただし、現在までに発掘されている史料が乏しいことから、志筑忠雄についてこれ以上追究することは難しい状況にある[5]

主な訳著書

脚注

  1. ^ 渡辺庫輔『阿蘭陀通詞志筑氏事略』、p. 31 - 35。
  2. ^ 原田博二「阿蘭陀志筑家について」、p. 24 - 25。
  3. ^ イサベル・田中・ファン・ダーレン「オランダ史料から見た長崎通詞 - 志筑家を中心に - 」、p. 32 - 34。
  4. ^ 鳥井裕美子「志筑忠雄の生涯と業績 - 今なぜ志筑忠雄なのか?」、および大島明秀『「鎖国」という言説 - ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史 - 』、p. 68 - 69、表3参照。
  5. ^ 「概要」の記述は、全て大島明秀『「鎖国」という言説 - ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史 - 』に拠って記された。
  6. ^ 吉田光邦『江戸の科学者たち』p. 156

参考文献(和文)