「堀口氏」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Hansa (会話 | 投稿記録)
56行目: 56行目:
{{DEFAULTSORT:ほりくちし}}
{{DEFAULTSORT:ほりくちし}}
[[category:日本の氏族|ほりくちし]]
[[category:日本の氏族|ほりくちし]]
[[category:新田氏|*ほりくちし]]
[[category:堀口氏|*]]

2012年5月12日 (土) 03:04時点における版

堀口氏(ほりぐちし)は鎌倉時代清和源氏新田氏の支族。

上野国新田郡新田荘)堀口郷(現在の群馬県太田市堀口、旧新田郡尾島町堀口)武蔵国現在の埼玉県ときがわ町の豪族。

概要

新田氏本宗家第4代目の惣領である新田政義の三男・堀口家貞(孫次郎家員)新田荘堀口郷を分割拝領し、堀口氏を興したのを始まるという。

家貞の嫡男貞義が堀口郷を相続し、庶子貞政が一井郷(太田市市野井(旧新田町))を相続し、一井氏(いちのいし)と称した。

貞義の養女新田義貞の生母との説もある(朝氏の項目参照)。家貞の末子の貞昭矢島氏(尾島氏)と称したという。

貞義の生母は評定衆も務めた伊具流北条有時の娘といわれており、本宗家が失脚した後に何らかの伝手を掴んだと思われる。その甲斐があり、新田本宗家が無位無官であるのに対して貞義は従四位下美濃守にまで昇進している。

元弘3年(1333年)、貞義の嫡子貞満は、本宗家の義貞(親族系譜では一世代下だが同年代)の挙兵にも参加し、鎌倉攻略で活躍している。

戦後の論功で貞満は父と同じ美濃守に補任された。その後も一貫して義貞の重臣として活躍し、延元元年(1336年)に、後醍醐天皇一向が比叡山足利尊氏に包囲され、義貞に無断で尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとした。

その時、貞満は強引に後醍醐帝の輿を止めて直訴した話は『太平記』で有名な一節である。

その後、貞満は嫡子の貞祐らとともに本宗家と共に一貫して南朝方として奮戦し、没落したという。

貞満の直系の子孫の一派(「美濃守」の称号を持った貞満の末子の貞安の子の貞治の系統とする)は、美濃国大野郡坂本村岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内村)の揖斐川上流付近)に土着し、坂本氏と称したという(後に本巣郡に移住した。代々、坂本三郎と称した)。

美濃坂本氏は戦国時代には齋藤氏明智氏に仕えたという。

現在では、群馬県太田市付近から旧鎌倉街道沿いの埼玉県熊谷市、ときがわ町(旧たまがわ村)、東松山市付近にその子孫が居住し、地元の名士などとなっている。

系譜

    新田政義
    ┏━┻━┳━━━━┓
   政氏 大館家氏 堀口家貞
           ┏━┻━━┳━━━━┓
          貞義  一井貞政 矢島貞昭
   ┏━━━┳━━━┻━━━━━━━━┳━━━┓
  貞樹  貞満           行義  義之
     ┏━┻┳━━━━┳━━┓   ┃
    義満 貞祐   貞親 貞安  義継
     ┏━━┻━┓  ┃  ┃
    貞兼   貞重 義忠 貞治
                ¦
              坂本貞興坂本氏美濃国大野郡坂本村が発祥地とされる)
                ┃
               貞正
              ┏━┻━┓
             貞春  貞之  

庶家