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== 生涯 ==
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父義宗は[[佐竹義昭]]の三男で、義忠の婿養子となった。[[慶長]]5年([[1600年]])主君[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]に常陸[[小田城]]を与えられ5万石を給される。慶長7年([[1602年]])、佐竹家が秋田に転封となると、東家の[[佐竹義賢]]と共に先乗りし、[[檜山城]]を守る。慶長8年([[1603年]])、領内で[[浅利氏]]の残党が蜂起するとそれを鎮める。慶長15年([[1610年]])[[南部氏]]、[[津軽氏]]への抑えとして[[大館城]]を任され知行5000石を給される。慶長19年([[1614年]])、[[大坂の陣|大坂冬の陣]]に参戦する。
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2012年4月9日 (月) 11:45時点における版

 
小場 義成
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄12年(1569年
死没 寛永11年10月27日1634年12月17日
別名 式部大輔
主君 佐竹義宣
出羽国久保田藩大館所預
氏族 佐竹西家
父母 父:小場義宗、母:小場義忠の娘
兄弟 義成石塚義辰
正室:佐竹義久の養女(大塚信濃の娘)
義易
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小場 義成(おば よしなり)は、佐竹氏一門の佐竹西家当主。久保田藩大館初代所預。

生涯

父義宗は佐竹義昭の三男で、義忠の婿養子となった。慶長5年(1600年)、主君佐竹義宣に常陸小田城を与えられ、5万石を給される。慶長7年(1602年)、佐竹家が秋田に転封となると、東家の佐竹義賢と共に先乗りし、檜山城を守る。慶長8年(1603年)、領内で浅利氏の残党が蜂起するとそれを鎮める。慶長15年(1610年南部氏津軽氏への抑えとして大館城を任され、知行5000石を給される。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に参戦する。

元和8年(1622年)、最上義俊改易となり、幕命により本荘城滝沢城の受け取りの任を務める。寛永6年(1629年)2月、佐竹家が江戸城神田橋の石垣普請を命じられると、その監督を務める。工事の完成後、江戸城で将軍徳川秀忠に拝謁して、時服と虎皮投鞘の槍を賜る。寛永11年(1634年)10月27日没。享年66。

参考文献

  • 『秋田小学軌鑑』国会図書館所蔵