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=== 田野口藩(龍岡藩) ===
=== 田野口藩(龍岡藩) ===
[[File:Tatsuoka Castle 1975.jpg|thumb|龍岡城<ref>{{国土航空写真}}(1975年度撮影)</ref>]]
藩庁を移転した乗謨は、洋式の設計によりこの地に築城することを計画し、幕府の許可を得る。[[元治]]元年([[1863年]])に築城を開始したこの城は[[龍岡城]]と名付けられたが、完成前に[[明治維新]]を迎えた。なお藩の名称も、明治維新直前に田野口藩から龍岡藩に改称されている。
藩庁を移転した乗謨は、洋式の設計によりこの地に築城することを計画し、幕府の許可を得る。[[元治]]元年([[1863年]])に築城を開始したこの城は[[龍岡城]]と名付けられたが、完成前に[[明治維新]]を迎えた。なお藩の名称も、明治維新直前に田野口藩から龍岡藩に改称されている。


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==田野口藩現存建物 ==
==田野口藩現存建物 ==
[[ファイル:龍岡城御台所櫓.JPG|thumb|龍岡城御台所櫓]]
*大広間は(佐久市落合)時宗寺本堂に移築
*大広間は(佐久市落合)時宗寺本堂に移築
*東通用口は(佐久市野沢)成田山の門に移築
*東通用口は(佐久市野沢)成田山の門に移築
龍岡城敷地内にお台所(場所は移動されている)
龍岡城敷地内にお台所(場所は移動されている)

== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2010年7月2日 (金) 09:07時点における版

奥殿藩(おくとのはん)は、三河国加茂郡額田郡(現在の愛知県岡崎市)と信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市)に存在した。藩庁は奥殿陣屋。なお、江戸時代初期に存在した大給藩(おぎゅうはん)および幕末期に存在した田野口藩(たのくちはん)・龍岡藩(たつおかはん)についても、実質的に同一の藩であることからこの項目で記述する。立藩より幕末まで、藩庁の移転はあったが石高・領地ともほぼ変わらず、一貫して松平氏大給松平家)が支配した。

藩史

大給藩

大給松平家は徳川家康の5代前の松平氏当主・松平親忠の次男・松平乗元より始まる一族で、代々松平氏宗家に譜代の家臣として仕えた。第5代当主・松平真乗の次男で徳川秀忠に仕えた松平真次は、大坂の役の功などにより加増を受ける際、知行地として先祖ゆかりの三河加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を望み、6000石の旗本としてこの地に陣屋を構えた。真次の子・松平乗次は、大坂定番となって1万石を加増され、合計1万6000石の大名となった。

その後、第3代藩主・松平乗真の代に至ると、大給は山間にあって交通の便も悪く、手狭となったことから、正徳元年(1711年4月28日、藩庁を領内の奥殿に移転した。

奥殿藩

奥殿移転後も、1万6000石の小藩の悲しさからか、享保年間には矢作川の洪水、飢饉を原因とする年貢半減を求める強訴などが起こった。天明年間にも天候不順から大凶作となり、そのために藩内で大暴動が起こった。

このような中で第7代藩主となった松平乗利は有能な名君で、90歳以上の者に対しては長寿を称えるということから毎年、米を100苞与えた。さらに文武を奨励して演武場、藩校・明徳館などを創設している。天保4年(1833年)の凶作時には、窮民に対する救済も万全に行なうなど、他の歴代藩主と比較して賞賛されるほどの藩政を行なっている。

乗利の後を継いだ松平乗謨は、幕末の動乱の中では佐幕派であり、海陸御備向・大番頭を経て、24歳の若さで若年寄にまで栄進し、幕末の幕政に尽力した。文久3年(1863年)9月11日、乗謨は藩庁を手狭な奥殿から、飛び地ではあったが領地の多くが存在する信濃佐久郡に移転した。

しかし、三河国の領民の多くは、この移転に反対して嘆願書を差し出すほどであったと言われている。

田野口藩(龍岡藩)

龍岡城[1]

藩庁を移転した乗謨は、洋式の設計によりこの地に築城することを計画し、幕府の許可を得る。元治元年(1863年)に築城を開始したこの城は龍岡城と名付けられたが、完成前に明治維新を迎えた。なお藩の名称も、明治維新直前に田野口藩から龍岡藩に改称されている。

歴代藩主

松平(大給)(まつだいら(おぎゅう))家

大給藩

譜代。1万6000石。

  1. 松平乗次(のりつぐ)<従五位下。縫殿頭>
  2. 松平乗成(のりなり)<従五位下。縫殿頭>
  3. 松平乗真(のりざね)<従五位下。縫殿頭>

奥殿藩

譜代。1万6000石。

  1. 松平乗真(のりざね)<従五位下。縫殿頭>【正徳元年4月28日藩主就任-享保元年7月5日死去】
  2. 松平盈乗(みつのり)<従五位下。縫殿頭>【享保元年9月5日藩主就任-寛保2年5月21日死去】
  3. 松平乗穏(のりやす)<従五位下。石見守>【寛保2年7月13日藩主就任-天明2年11月21日隠居】〔大番頭。二条城在番〕
  4. 松平乗友(のりとも)<従五位下。兵部少輔>【天明2年11月21日藩主就任-寛政2年3月6日隠居】
  5. 松平乗尹(のりただ)<従五位下。主水正>【寛政2年3月6日藩主就任-享和2年12月2日隠居】〔大坂加番〕
  6. 松平乗羨(のりよし)<従五位下。縫殿頭>【享和2年12月6日藩主就任-文政10年8月23日死去】〔大坂加番。大番頭。二条城在番〕
  7. 松平乗利(のりとし)<従五位下。石見守>【文政10年10月16日藩主就任-嘉永5年3月5日隠居】〔大坂加番〕
  8. 松平乗謨(のりかた)<正四位下。縫殿頭>【嘉永5年3月7日藩主就任-文久3年9月11日移転】〔大番頭。若年寄。海陸御備向掛〕

田野口藩(龍岡藩)

譜代。1万6000石。

  1. 松平乗謨(のりかた)<正四位下。縫殿頭>〔老中格。陸軍総裁〕

田野口藩現存建物

龍岡城御台所櫓
  • 大広間は(佐久市落合)時宗寺本堂に移築
  • 東通用口は(佐久市野沢)成田山の門に移築

龍岡城敷地内にお台所(場所は移動されている)

脚注

  1. ^ 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成(1975年度撮影)

関連項目