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'''川勝 隆房'''(かわかつ たかふさ、[[寛永]]8年([[1631年]]) - [[宝永]]3年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]([[1706年]][[8月9日]]))は、[[江戸時代]]の[[旗本]]。隆房流川勝家の初代当主。本姓は[[秦氏]]で、[[秦河勝]]の後裔とされる。通称は平左衛門。[[川勝重氏 (勘左衛門)|川勝勘左衛門重氏]]の三男。母は村上左衛門信清の二女。妻は馬淵氏の娘。子に[[川勝隆成]]、[[川勝隆明]]([[川勝隆尚]]の養子)、[[川勝広英]]([[川勝広宣]]の養子)、娘(岡田五左衛門由重の妻)、某、がいる。
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'''川勝 隆房'''(かわかつ たかふさ)は、[[江戸時代]]前期から中期の[[旗本]]。隆房流川勝家の初代当主。
寛永8年(1631年)、川勝勘左衛門重氏の三男として生まれた。[[慶安]]3年([[1650年]])9月3日、召されて[[徳川家綱|家綱]]に仕える[[小十人]]に列し、同日初めて将軍[[徳川家光|家光]]に拝謁した。その後本城で仕え[[蔵米]]100俵を給わり、旗本家を興した。家紋は五七桐、釘抜。通し字は「'''隆'''」。[[明暦]]3年([[1657年]])12月25日、先の本城延焼の時の具足持ち出しを賞せられ、黄金1枚を賜った。[[万治]]2年([[1659年]])6月9日、[[組頭]]に進み、同年12月23日に200俵を加えられた。[[寛文]]5年([[1665年]])5月16日、職を辞し小普請となり、寛文8年([[1668年]])5月25日に[[大番]]に列した。[[延宝]]4年([[1676年]])10月25日材木奉行に転じた。[[元禄]]2年([[1689年]])12月29日に職を辞し、宝永3年(1706年)7月2日、76歳で没した。法名は隆英。墓所は(東京)赤坂の法安寺。家督は嫡男の隆成が継いだ。

== 生涯 ==
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[[明暦]]3年([[1657年]])12月25日、先の本城延焼の時の具足持ち出しを賞せられ、黄金1枚を賜った。[[万治]]2年([[1659年]])6月9日、[[組頭]]に進み、同年12月23日に200俵を加えられた<ref>嫡男の隆成が大番の組頭に進み更に100俵を加えられて、合わせて蔵米400俵の禄高となった。</ref>。[[寛文]]5年([[1665年]])5月16日、職を辞し小普請となり、寛文8年([[1668年]])5月25日に[[大番]]に列した。[[延宝]]4年([[1676年]])10月25日材木奉行に転じた。[[元禄]]2年([[1689年]])12月29日に職を辞し、[[宝永]]3年([[1706]])7月2日、76歳で没した。家督は嫡男の隆成が継いだ。

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2009年12月30日 (水) 08:30時点における版

 
川勝隆房
時代 江戸時代前期 - 江戸時代中期
生誕 寛永8年(1631年
死没 宝永3年7月2日1706年8月9日
別名 平左衛門(通称)
戒名 隆英(法名)
墓所 東京都港区赤坂の法安寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家光家綱綱吉
氏族 本姓:秦氏秦河勝後裔
名字:川勝氏
父母 父:川勝重氏、母:村上信清の二女
兄弟 川勝長氏川勝広恒川勝隆房
川勝隆尚、女子(牛込重忝室)、
女子(美濃部茂命室)、
女子(福嶋左衛門大夫家臣森種貫室)
正室:馬淵氏の娘
川勝隆成川勝隆明川勝広英
女子(岡田由重室)、某
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川勝 隆房(かわかつ たかふさ)は、江戸時代前期から中期の旗本。隆房流川勝家の初代当主。

生涯

寛永8年(1631年)、川勝重氏の三男として江戸に生まれた。慶安3年(1650年)9月3日、召されて家綱に仕える小十人に列し、同日初めて将軍家光に拝謁した。その後本城で仕え蔵米100俵を給わり、旗本家を興した。家紋は五七桐、釘抜。通し字は「」。

明暦3年(1657年)12月25日、先の本城延焼の時の具足持ち出しを賞せられ、黄金1枚を賜った。万治2年(1659年)6月9日、組頭に進み、同年12月23日に200俵を加えられた[1]寛文5年(1665年)5月16日、職を辞し小普請となり、寛文8年(1668年)5月25日に大番に列した。延宝4年(1676年)10月25日材木奉行に転じた。元禄2年(1689年)12月29日に職を辞し、宝永3年(1706年)7月2日、76歳で没した。家督は嫡男の隆成が継いだ。

脚注

  1. ^ 嫡男の隆成が大番の組頭に進み更に100俵を加えられて、合わせて蔵米400俵の禄高となった。

参考文献

  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年

関連項目

先代
重氏
川勝知氏系隆房流
初代:1650年 - 1706年
次代
隆成