「鳥海山大物忌神社」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
160行目: | 160行目: | ||
[[Category:山形県にある国指定の史跡]] |
[[Category:山形県にある国指定の史跡]] |
||
[[Category:遊佐町]] |
[[Category:遊佐町]] |
||
[[Category:修験道]] |
2009年7月22日 (水) 08:36時点における版
鳥海山大物忌神社 | |
---|---|
所在地 |
山形県飽海郡遊佐町 大字吹浦字西楯(本社) 大字吹浦字布倉1(吹浦) 大字上蕨岡字松ヶ岡51(蕨岡) |
位置 |
(吹浦口之宮) 北緯39度04分30.45秒 東経139度52分44.05秒 / 北緯39.0751250度 東経139.8789028度 (蕨岡口之宮) 北緯38度59分49.00秒 東経139度56分38.00秒 / 北緯38.9969444度 東経139.9438889度 |
主祭神 |
大物忌神 月読命(吹浦口之宮のみ) |
社格等 | 式内社(名神大)・出羽国一宮・国幣中社・別表神社 |
創建 |
伝 景行天皇または欽明天皇御代 |
例祭 | 5月3日(蕨岡)・5月4日(吹浦) |
鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)は、山形県飽海郡遊佐町にある神社。出羽国一宮、式内社(名神大)、旧社格は国幣中社で、戦後、神社本庁の別表神社となった。鳥海山頂の本社と、麓の吹浦と蕨岡の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称する。主祭神は大物忌大神で、『神祗志料』や『大日本国一宮記』では倉稲魂命のことであるとしている。平成20年(2008年)国の史跡に指定された。吹浦口之宮では、月読命も併せて祭っている。
歴史
創建期
景行天皇または欽明天皇時代の創建と伝えられる。[1] 貞観13年(871年)の出羽国司の報告により飽海郡山上に大物忌神社があったことが確認できるが[2]、それ以前の記録は欠けているため創建時期は特定できない。また、山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しているため勧請についても諸説生じさせている。
夷征と大物忌神
越国より始められた夷征は、慶雲から和銅の頃に庄内以北の着手に至ったが、当時この地方は原生林に覆われ、また南方を追われた蝦夷が群居し、常に噴煙を吐く鳥海山が時々大爆発する状況は夷征に着手した朝廷軍にとって戦慄すべきものであった。日本において山岳信仰は盛んであったが、前述の状況から、朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑うに至ったのではないかと『名勝鳥海山』[3]では推測している。
日本三代実録の貞観13年(871年)の条に、以下の記述がある。 《4月に噴火があり多大な被害と多数の死者が出たことが出羽国司より報告され、報告を受けた朝廷が陰陽寮にて占いを行ったところ、弘仁年間の鳥海山噴火後まもなく戦乱があったのは国守が凶変ある毎に祈祷したが後の報祭を怠ったため大物忌神がお怒りになったためと結果が出た。よって鎮謝報祭が行われなければ戦乱が起こるので奉賽を行うと共に神田を汚している家墓骸骨を除去せよと国守に命じた。》 この記述は鳥海山噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている。
元来、鳥海山は山名が無く[4]、山そのものが大物忌神と称されていた。物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むと言うことであり、山の爆発は山神が夷乱凶変を忌み嫌って予め発生するものだと朝廷は考えた、これがこの山神を大物忌神と称した所以であると『名勝鳥海山』[3]では考察している。また同書では、山神の怒りを鎮め、その力を借りて夷乱凶変を未然に防ごうとした一例として、天慶2年(939年)に秋田夷乱(天慶の乱)発生の報が到達するや[5]朝廷で物忌が行われた[6]ことを挙げている。ちなみに同年にも鳥海山が噴火したとの記録がある。[7]
鳥海山の神威と神階昇叙
鳥海山の噴火は大物忌大神の神威の表れとされ、噴火のたびに朝廷より神階の昇叙が行われた。承和5年(838年)従五位上であった大物忌神を正五位下に1級進めていることから、これ以前に神階の授位があったことは明らかであるが、文献上の記録が無いため最初の授位がいつかは不明である。以下は時系列的に並べた神階の授与である。
-
- 秋田夷乱(元慶の乱)において朝廷軍が敗退したのを受け占ったところ、古来より征戦に霊験を有する大物忌神、月山神、小物忌神の3神が、神気賊に帰して祈祷が届かなくなってしまったと出た。そこで爵級を増せば霊応あるべしとして、勳五等を勳三等に進めた。[2] さらに神封2戸を加増して4戸となった。
神仏習合
斉衡3年(856年)から貞観12年(870年)の間に出羽国では定額寺が6ヶ所指定され、また日本三代実録の仁和元年(885年)11月の条では飽海郡に神宮寺があったと記していることから、出羽における神仏習合はこの時期に始まったと推測される。大物忌神へ奉仕する職制は神仏習合以来変化し、従来の唯一神道を以って奉仕する社家、神宮寺の仏式を以って奉仕する社僧に別れたが、その後の仏教隆盛に従い社家は段々と衰退して行き、中世には本地垂迹説により鳥海山大権現と称して社僧が奉仕をしていた。後に明治の神仏分離により神社となり、大物忌神社に復している。
鳥海修験の拠点
- 吹浦口:鳥海山大物忌神社(別当神宮寺)
- 蕨岡口:鳥海山大物忌神社(別当龍頭寺)
- 小滝口:金峰神社(別当龍山寺)
- 滝沢口:森子大物忌神社
- 矢島口:木境大物忌神社(別当福王寺)
- 院内口
出羽国一宮
延長5年(927年)には延喜式神名帳により式内社、名神大とされた。また、同式の『主税式』においても祭祀料2,000束を国家から受けている。『延喜主税式』によれば、 当時国家の正税から祭祀料を受けていたのは陸奥国鹽竈神社、伊豆国三島社、淡路国大和大国魂社と他に3社しかないことから、大物忌神社が国家から特別の扱いを受けていたことが覗える。
出羽国一宮とされ、南北朝時代の正平13年(北朝の元号では延文3年、1358年)、南朝の陸奥守兼鎮守府将軍である北畠顕信が南朝復興と出羽国静謐を祈願した寄進書[9]に出羽国一宮の記述が見える。これが文献上における一宮名号の初見であるとされる。
一宮争い
鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所があり、各登山口に大物忌神に奉仕する宗徒社人が集い、連綿とした事由から互いに反目競争するに至っていたが、ついには庄内藩や江戸幕府の裁決を仰ぐことが少なからず起こるようになった。以下、そのいくつかを上げる。
- 吹浦、蕨岡の論争
- 吹浦の宗徒社人は山上の大物忌神を吹浦に遷座したと説くと共に月山神を勧請し、両所宮と称して神宮寺の創建より隆盛を来たしていた。これに対し蕨岡の宗徒社人は山上の鳥海山大権現の学頭別当と称し、直接山上に奉仕していた。この考え方の違いがお互いに反目する原因となっていたが、蕨岡宗徒が吹浦からの登山者を差し止めたことから両者の論争となり、承応3年(1654年)ついに庄内藩や江戸寺社奉行に訴えが出された。幕府検使の臨検の後、明暦元年(1655年)に次の判決が出た。
- 訴えのあった守札の書付について、吹浦は鳥海山と書いていた証拠が無いので両所山と書き、蕨岡は大堂のある松岳山と書いていた証拠があるので松岳山と書くこと。
- 吹浦からの登山者を蕨岡は差し止めないこと。
- この裁断の後、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると言う認識が確定的なものとなり、山頂社殿の建替や嶺境争い等の山頂に関連した論争に吹浦は感知しない状態となってしまった。
- 蕨岡、矢島の御堂建替の論争
- 修験道には紀伊の熊野に始まった順峰と逆峰の2つの法式があるが、鳥海山においては蕨岡が順峰、矢島と滝沢が逆峰を称し、古来より順逆両部勤行の霊山として修行が行われていた。それにもかかわらず、矢島と滝沢の間に逆峰名称の論争が起き、また蕨岡と矢島の間には順逆の論争が発生した。この状況により滝沢は蕨岡の援助を得て逆峰院主を矢島から奪ったが、延宝6年(1678年)矢島は論争のすえ逆峰院主を取り戻した。これにより矢島と滝沢の逆峰院主の論争は終結し、また蕨岡と矢島も順逆お互いの法式を相犯さないと確認した。しかし元禄14年(1701年)山頂社殿建替えの話が上がると、矢島は逆峰側で建替えるのが至当であると、本山である三宝院に総代3名を送って陳訴した。これに対し三宝院は順逆両方で申し合わせのうえ相勤めよとの和解書を蕨岡へ出したが、これまで一山を取り仕切り、山頂社殿を建替えてきた蕨岡はこれを不服として三宝院へ訴状を出した。その後、順逆双方から書類を出し、同年11月に三宝院鳳閣寺より次の裁断が下された。
- この裁断により一旦は息を潜めたかに見えた順逆の論争であるが、山頂社殿建替後の遷宮式において矢島の群衆が棟札を奪い取る事件が発生し、再燃することとなる。
- 蕨岡、矢島の嶺境の論争
- 建替え論争に破れた矢島宗徒は、三宝院が「嶺境は行政の領分なので後日申し立てること」としたことを以って嶺境の訴訟を起こした。しかしながら嶺境問題は宗徒間のみならず庄内藩と矢島藩にとっても重大問題であることから、最後は両藩が相争う状態となって行く。元禄16年(1703年) 三宝院鳳閣寺はこれまでの建替論争の経過に付帯文書を添え、さらにその顛末を述べて幕府寺社奉行所に裁決を出願した。寺社奉行所では審理の末、事の容易ならざることを察し、嶺境は不明だが日本三代実録に大物忌神社が飽海郡山上にあることが明記されているので、棟札は飽海郡と書くのを妥当とし、嶺境は不問とするよう裁決を出した。この裁決に矢島宗徒は従わず、それに加え、この問題が重大な国境問題となる矢島藩が領内百姓の名を以って寺社奉行に訴え出た。ここに至り寺社奉行はこの問題を重大事と判断して評定所の審理に移した。評定所は庄内の修験百姓に答弁書提出を命じ、翌宝永元年(1704年)庄内修験百姓等は答弁書を提出した。これに対し矢島宗徒は吹浦宗徒の主張を利用し、大物忌神社は吹浦に遷座しており現在の山頂社殿は由利郡に属するものであると主張、追訴した。評定所は原告被告の双方を時々呼び出し取調べに着手したが、現地を検分しないことには地形的関係が把握できず審理を進められないと判断し、現地に検使を派遣して検分と共に聞き取り調査を行った。検使は江戸へ帰ると鳥海山の模型を作り、評定所はこの模型とその他の調査結果を基に審理を行い、かつ双方の修験百姓を江戸に呼び出し吟味した。その結果、同年9月次の判決を言い渡した。
- 日本三代実録の記述どおり山頂社殿を大物忌神社とし、山頂社殿の所在する場所は飽海郡とする。
- 西は笙野岳腰より稲村岳の8分に亘り、東は女郎岳の腰までをもって郡境と定める。
- これにより、由利郡側山腹(秋田側山腹)の7合目より以南が飽海郡になった。 また、この判決に関し、いくつかのいざこざが庄内藩と矢島藩の間に起こったと言う。
- 吹浦の一宮名号使用の訴願
- 宝永元年(1704年)の評定所の判決以降、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると強く認識されるようになり、その勢力は増して行った。勢力の増大により、蕨岡宗徒は山頂社殿を出羽国一宮大物忌神社、蕨岡を鳥海山表口別当、吹浦を末社と称するに至り、吹浦大物忌神社は全く蕨岡に奪われたも同然の状態となってしまった。宝永4年(1707年)社家の進藤曾太夫邦實はこれを嘆き、回復を計らんとして一宮の名号を吹浦に許されることを庄内藩に訴願した。鶴岡の寺社奉行が吟味した結果、太夫の訴願は幕府の嶺境裁断において山頂社殿を大物忌神社とした際の判決を戻すとして、「公義御裁許破り」の罪名で太夫を出羽一国追放にした。
明治以降
明治4年(1871年)吹浦宮が国幣中社に指定されたが、かつての一宮争いのこともあり、明治14年(1881年)に山頂の宮を国幣中社に指定し直し、麓の吹浦および蕨岡の社殿を「口之宮」と定めた。昭和30年(1955年)、三社を併せた総称として現在の「鳥海山大物忌神社」に改称した。
独立峰鳥海山は、古代には国家の守護神として、また古代末期から中世および近世を通じては出羽国における中心的な信仰の山として現在の山形県庄内地方や秋田県由利郡および横手盆地の諸地域など周辺一帯の崇敬を集め、特に近世以降は農耕神として信仰された。平成20年(2008年)3月28日、鳥海山の山岳信仰の中心を担ってきた大物忌神社は、古代から中世、近世の宗教や信仰の実態を知るうえで貴重であるとして、神社境内が国の史跡に指定された。
祭事
- 1月1日 歳旦祭 御頭舞奉納
- 1月5日 五日堂大祈祷 (五穀の占)
- 4月8日 祈年祭 (吹浦口之宮)
- 5月3日 蕨岡口之宮例大祭 蕨岡延年奉納
- 5月4日 吹浦口之宮例大祭 吹浦田楽奉納
- 5月5日 吹浦口之宮例大祭
- 7月1日 鳥海山夏山開祭 (吹浦口之宮)
- 7月14日 鳥海山火合せ神事 (山頂、御浜、西浜、飛鳥、宮海など)
- 7月15日 月山神社祭 (玉酒神事)
- 11月8日 新嘗祭 (吹浦口之宮)
- 11月9日 新嘗祭 (吹浦口之宮)
- 11月12日 新嘗祭 (蕨岡口之宮)
文化財
- 鳥海山大物忌神社文書:重要文化財
- 鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮神楽殿:登録有形文化財
- 鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮随神門:登録有形文化財
- 鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮本殿:登録有形文化財
- 鳥海山大物忌神社境内:史跡
- 鳥海山大物忌神社境内地
- 吹浦口ノ宮
- 蕨岡口ノ宮
脚注
- ^ 社伝では景行天皇の御代に出現し、欽明天皇25年(564年)鳥海山上に鎮座したとされる。 永正7年(1510年)に著された『羽黒山年代記』では欽明天皇7年(546年)の出現としている。
- ^ a b c d e f 日本三代実録の記述による。
- ^ a b 安斎 徹・橋本賢助・阿部正巳 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』 国書刊行会
- ^ いつごろから鳥海山と呼ばれたかは定かでないが、暦応5年(1342年)7月26日、藤原守重が息災延命の意趣をもって奉納した鰐口銘に、鳥海山とあるものが文字として確認できる最古のものである。
- ^ 日本紀略の記述による。
- ^ 外記日記の記述による。
- ^ a b 本朝世紀の記述による。
- ^ a b 続日本後紀の記述による。
- ^ 吹浦口之宮 所蔵 (国重要文化財)
関連項目
- 北海道・東北の史跡一覧
- 鳥海修験に関するもの
参考文献
- 安斎 徹・橋本賢助・阿部正巳 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』 国書刊行会、1982.11(山形県郷土研究会 昭和6年刊の複製)