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'''天璋院'''(てんしょういん・島津篤子→近衛敬子、[[天保]]6年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]([[1836年]][[2月5日]]) - [[明治]]16年([[1883年]])[[11月20日]])篤姫(あつひめ)は、[[江戸時代]]後期から[[明治]]の女性で、江戸幕府13代将軍[[徳川家定]][[御台所]]([[正室]]、[[継室]])である。実父は、[[薩摩国]]([[鹿児島県]])藩主[[島津氏|島津家]]の一門・[[今和泉家|今和泉]]領主[[島津忠剛]]。幼名、一(かつ)。[[島津斉彬]]の養女になり'''篤子'''(あつこ)に、[[近衛忠煕]]の養女となった際には'''敬子'''(すみこ)と名を改めた。
'''天璋院'''(てんしょういん・島津篤子→近衛敬子、[[天保]]6年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]([[1836年]][[2月5日]]) - [[明治]]16年([[1883年]])[[11月20日]])篤姫(あつひめ)は、[[江戸時代]]後期から[[明治]]の女性で、[[近衛家]]の娘として[[徳川家]]に嫁ぎ江戸幕府13代将軍[[徳川家定]][[御台所]]([[正室]]、[[継室]])となる。
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== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[鹿児島城]]下に生まれる。[[嘉永]]6年([[1853年]])、薩摩藩主・[[島津斉彬]]の養女となり、同年鹿児島から江戸藩邸に入る。従兄斉彬の養女となったのは、将軍家への輿入れを想定に入れたものであった。それ以前から[[大奥]]より島津家に対して縁組みの持ちかけがあった。大奥の目的は、島津家出身の御台所([[広大院]])を迎えた先々代将軍・[[徳川家斉]]が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われる。当時の将軍・[[徳川家定]]の正室は次々と夭死しており、家定自身も病弱で、子供は一人もいなかった。
[[鹿児島城]]下に生まれる。[[嘉永]]6年([[1853年]])、従兄弟にあたる薩摩藩主・[[島津斉彬]]の養女となり、同年鹿児島から江戸藩邸に入る。従兄斉彬の養女となったのは、将軍家への輿入れを想定に入れたものであった。それ以前から[[大奥]]より島津家に対して縁組みの持ちかけがあった。大奥の目的は、島津家出身の御台所([[広大院]])を迎えた先々代将軍・[[徳川家斉]]が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われる。当時の将軍・[[徳川家定]]の正室は次々と夭死しており、家定自身も病弱で、子供は一人もいなかった。


一方、篤子は斉彬から政治的使命を帯びて[[江戸城]]へ送り込まれたとされる。斉彬は将軍後継問題を巡り、次期将軍に一橋慶喜([[徳川慶喜]])を推す一橋派と、紀州慶福([[徳川家茂]])を推す南紀派に分かれて対立する幕閣において、慶喜の将軍後継を実現させるために篤子を徳川家へ輿入れさせた。但し、藩主の実子であった広大院に対し、篤姫自身は島津家の分家の出身であり、一橋派大名からも「あまりにも御台所としては身分が低すぎる」と言う懸念の声があった<ref>慶喜の父・[[徳川斉昭]]は斉彬がなりふり構わない手段をとり、このように身分の低い女性を送り込むこと自体、将軍家を軽んじている姿勢の現れではないかという内容の書状を残している。参考『徳川将軍家の結婚』ISBN 4166604805</ref>。
一方、篤子は斉彬から政治的使命を帯びて[[江戸城]]へ送り込まれたとされる。斉彬は将軍後継問題を巡り、次期将軍に一橋慶喜([[徳川慶喜]])を推す一橋派と、紀州慶福([[徳川家茂]])を推す南紀派に分かれて対立する幕閣において、慶喜の将軍後継を実現させるために篤子を徳川家へ輿入れさせた。但し、藩主の実子であった広大院に対し、篤姫自身は島津家の分家の出身であり、一橋派大名からも「あまりにも御台所としては身分が低すぎる」と言う懸念の声があった<ref>慶喜の父・[[徳川斉昭]]は斉彬がなりふり構わない手段をとり、このように身分の低い女性を送り込むこと自体、将軍家を軽んじている姿勢の現れではないかという内容の書状を残している。参考『徳川将軍家の結婚』ISBN 4166604805</ref>。

2008年1月9日 (水) 06:45時点における版

天璋院(てんしょういん・島津篤子→近衛敬子、天保6年12月19日1836年2月5日) - 明治16年(1883年11月20日)篤姫(あつひめ)は、江戸時代後期から明治の女性で、近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ江戸幕府13代将軍徳川家定御台所正室継室)となる。

実父は、薩摩国鹿児島県)藩主島津家の一門・今和泉領主島津忠剛島津斉宣の孫にあたる。

幼名、一(かつ)。本家で従兄弟の島津斉彬の養女になり源 篤子(みなもと あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら すみこ)と名を改めた。

生涯

鹿児島城下に生まれる。嘉永6年(1853年)、従兄弟にあたる薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、同年鹿児島から江戸藩邸に入る。従兄斉彬の養女となったのは、将軍家への輿入れを想定に入れたものであった。それ以前から大奥より島津家に対して縁組みの持ちかけがあった。大奥の目的は、島津家出身の御台所(広大院)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われる。当時の将軍・徳川家定の正室は次々と夭死しており、家定自身も病弱で、子供は一人もいなかった。

一方、篤子は斉彬から政治的使命を帯びて江戸城へ送り込まれたとされる。斉彬は将軍後継問題を巡り、次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派と、紀州慶福(徳川家茂)を推す南紀派に分かれて対立する幕閣において、慶喜の将軍後継を実現させるために篤子を徳川家へ輿入れさせた。但し、藩主の実子であった広大院に対し、篤姫自身は島津家の分家の出身であり、一橋派大名からも「あまりにも御台所としては身分が低すぎる」と言う懸念の声があった[1]

安政3年(1856年)、篤姫は右大臣近衛忠煕の養女となり、その年の11月には家定の正室として大奥へ入る。しかし、同5年(1858年)7月には斉彬、8月には家定が急死し、14代将軍には徳川家茂が就任することとなり、篤子は使命を果たすことが出来なかった。家定の死により篤子は落飾し、以後「天璋院」と名乗る。

幕府は公武合体政策を進め、文久2年(1862年)には朝廷より家茂正室として皇女和宮が大奥へ入る事が決定される。薩摩藩は天璋院の薩摩帰国を申し出るが、天璋院は帰国を拒否している。また、輿入れした当初の和宮と天璋院は一種の「嫁姑」の関係にあり、更に皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあって不仲であったが、後に和解したとされる。

勝海舟の談話などから、自らが擁立する予定だった15代将軍・徳川慶喜とは険悪な仲であったとされ、慶応2年(1866年)には慶喜の大奥改革に、家茂が死去して「静寛院宮」と名乗っていた和宮と共に抵抗する。一方、慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅してから江戸城の無血開城に至る中、自らの実家に当たる島津家に嘆願し、朝廷に嘆願した和宮と共に徳川家救済や慶喜の助命にも尽力したとされる。

晩年は田安亀之助こと徳川宗家16代家達の養育に心を砕いた。明治期は徳川家からの援助で過ごし、明治16年(1883年)に東京の一橋邸で死去、享年48。東京都台東区上野寛永寺に、夫・家定の墓と並べて埋葬された。自分の所持金を切り詰めてでも元大奥の下々の者の就職や縁組に奔走し、金を恵んでいたため、死に際してその所持金はたった3円(現代の6万円)しかなかったという。戒名は天璋院殿敬順貞静大姉。

エピソード

  • 愛犬家であり、結婚前にはを多数飼っていた。しかし、夫・家定が大の犬嫌いだったために大奥入り後は猫(名はサト姫)を飼っていた。その猫を世話をしていたのは、天璋院と共に大奥を統轄していた御年寄・瀧山の姪・大岡ませ子である。(参考『花葵-徳川邸おもいでばなし』ISBN 4620312347

彼女を扱った作品

研究書

小説

テレビドラマ

関連項目

外部リンク

補注

  1. ^ 慶喜の父・徳川斉昭は斉彬がなりふり構わない手段をとり、このように身分の低い女性を送り込むこと自体、将軍家を軽んじている姿勢の現れではないかという内容の書状を残している。参考『徳川将軍家の結婚』ISBN 4166604805
  2. ^ 「前の大将軍温恭院様の御台様、当天璋院様御事、各の兼ねて伺い及ばるる通り、其の実は薩州齊彬公(=鹿児島藩11代藩主)の姫君にして、御幼名篤姫君と称し奉り、此の御方不思議の御因縁にて当門流御帰依遊ばされ、八ヶ年以来、江戸御下関の節、京都に於て近衛様の御養女と成らせられて、薩州芝の御館に着御之有り、而して前の将軍様へ御婚姻相調はせられ、去る辰の年(=安政3年)十一月、渋谷の御館より直ちに御台様にて御本丸へ御輿入れ相済み為され、四海波静かにて比翼連理の御契り浅からず、御威勢に在す処、如何の御因縁にや一昨年将軍様には御急病にて御他界遊ばされ、誠に御台様の御愁歎言語に尽くし奉り難く、若君様には御幼年に入り為され、彼れ是れ以て御尊労の中に、去年御炎上の後も何角と御心掛かりの御事共も在らせられ、之に依り当春三月、厳しく御祈祷申し上ぐべき旨仰せを蒙り、三月十四日より閏三月及び四月五日に至り、都合五十一日、朝は暁七つ(=午前4時ごろ)より五つ時(=午前8時ごろ)迄、昼は九つ時(=正午ごろ)より夕七つ(=午後4時)頃迄、夜は六つ時(=午後6時ごろ)より四つ時(=午後10時ごろ)迄、弥よ丹誠を抽し、必至の御祈念申し上げる処に、不思議の御利益を以て追々世上穏やかに相成り、御互いに有り難き事にあらずや」(日英筆 『時々興記留』より抜粋)