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滝川具章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
滝川 具章
時代 江戸時代前期
生誕 寛永21年(1644年
死没 正徳2年11月18日1712年12月16日
別名 通称:三郎四郎
戒名 義海
墓所 下谷広徳寺塔頭桂徳院
官位 従五位下相模守備中守丹後守山城守
幕府 江戸幕府 書院番中奥番小姓目付京都町奉行
主君 徳川家綱綱吉家宣
氏族 滝川氏
父母 父:滝川利貞、母:滝川正利の娘
兄弟 利雅利錦具章土岐頼利、義利、女子1人
正室:酒井忠勝の娘
利忠、平利稲生正武室、邦房安藤信賁室、具英
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滝川 具章(たきがわ ともあきら)は、江戸時代旗本村上源氏北畠庶流滝川家常陸片野藩滝川雄利の子孫)分家初代当主。通称は三郎四郎、官位は従五位下相模守備中守丹後守山城守

生涯

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寛永21年(1644年)、旗本滝川利貞の三男として生まれた。母は旧片野藩主滝川正利の娘[1]万治3年(1660年)、初めて徳川家綱御目見した[2]寛文3年(1663年)、譜代大名・旗本の庶子120人が召しだされて書院番に入番したうちに選ばれて番士となり[3]、寛文5年(1665年)に廩米300俵を与えられた[1]

寛文10年(1670年)、中奥番を経て[4]奥小姓に登用され[5]、200俵加増の上[6]従五位下相模守に叙せられた[7]延宝5年(1677年)に500俵を加増されたが[8]、延宝8年(1680年)に家綱が死去したのに伴って小姓を辞職し、寄合に列した[1]

元禄5年(1692年)、目付に任命されて復職[9]。元禄9年(1696年)、京都町奉行に昇進[10][注釈 1]近江国滋賀郡内に500石を加増された[1]。元禄10年(1697年)、廩米1000俵に替えて滋賀郡と蒲生郡のうちに高1000石の知行を与えられ、都合近江国内1500石を領する[1]

ところが元禄15年(1702年)10月、江戸に召還の上、能力不足[注釈 2]として京都町奉行を免職され、小普請入り[注釈 3]を命ぜられた[1][11][12][注釈 4][注釈 5]

正徳2年(1712年)死去、享年69[1]

系譜

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分家邦房の婿養子利行が所領300石を返上して具英の所領1200石を継ぎ、子孫は1200石の中級旗本として幕末まで続いた。鳥羽・伏見の戦いの戦端を開いた大目付滝川具挙はこの家の幕末の当主である[14]

参考文献

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脚注

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注釈

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  1. ^ 滝川具章の京都町奉行任命に伴って同職は2名から3名に増員(1名は江戸在府)と定められ、伏見奉行が統合されて京都町奉行に伏見兼轄が命ぜられた(元禄11年(1698年)まで)。
  2. ^ 「その職に応ぜざる」(『寛政重修諸家譜』)、「奉職無状」(『徳川実紀』)。
  3. ^ 諸大夫役(就任者が従五位下に叙任される役職)である小姓や遠国奉行を勤めた者は小禄でも退任後に寄合席に入る資格を有し、小普請に入れられることは不名誉の降格処分である。
  4. ^ このとき京都町奉行は定員2名に戻されている。
  5. ^ 滝川具章の京都町奉行としての評判は悪く、関白近衛基熙は、罷免の情報を耳にして「京都上下悦ばざる者無し、悪徳尤も然るべし云々」と日記(『基熙公記』)に書きとめている[12]。後の時代の京都町奉行所与力である神沢杜口の随筆『翁草』によると、罷免の理由は「過分の私曲」が露見したためであり、その罷免と同時に彼の与力であった大塚藤兵衛が改易されたという[13]

出典

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  1. ^ a b c d e f g 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書, 1923, p. 427.
  2. ^ 「厳有院伝御実紀」巻20. 万治3年12月25日条(『徳川実紀. 第參編』経済雑誌社, 1904, p. 373.
  3. ^ 「厳有院伝御実紀」巻27. 寛文3年11月19日条(『徳川実紀. 第參編』p. 481-483.
  4. ^ 「厳有院伝御実紀」巻41. 寛文10年10月13日条(『徳川実紀. 第參編』p. 711.
  5. ^ 「厳有院伝御実紀」巻41. 寛文10年11月16日条(『徳川実紀. 第參編』p. 713.
  6. ^ 「厳有院伝御実紀」巻41. 寛文10年12月25日条(『徳川実紀. 第參編』p. 716.
  7. ^ 「厳有院伝御実紀」巻41. 寛文10年12月28日条(『徳川実紀. 第參編』p. 717.)。
  8. ^ 「厳有院伝御実紀」巻55. 延宝5年閏12月27日条(『徳川実紀. 第參編』p. 897.
  9. ^ 「常憲院伝御実紀」巻25. 元禄5年4月14日条(『徳川実紀. 第四編』経済雑誌社, 1904, p. 406.
  10. ^ 「常憲院伝御実紀」巻33. 元禄9年正月15日条(『徳川実紀. 第四編』p. 517.
  11. ^ 「常憲院伝御実紀」巻46. 元禄15年10月25日条(『徳川実紀. 第四編』p. 752.
  12. ^ a b 「史料稿本」元禄15年10月25日条
  13. ^ 「翁草」巻140(神沢貞幹『翁草. 14』五車楼書店, 1905, p. 148.
  14. ^ 小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典』第3巻, 東洋書林, 1997, p. 1610.