池田政共
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化3年11月2日[1](1806年12月11日) |
死没 | 文政7年5月22日[2](1824年6月18日) |
改名 | 陽吉、勇吉、政共 |
墓所 | 岡山県岡山市中区小橋町の国清寺 |
官位 | 従五位下・信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 備中鴨方藩主 |
氏族 | 池田氏(利政流) |
父母 | 父:池田政養、母:兼子(池田治政娘) |
兄弟 | 政共、政広、政善、水野元茂ら |
妻 | 正室:志賀(松平忠馮の娘) |
子 | 養子:政広(政善) |
池田 政共(いけだ まさとも)は、江戸時代後期の大名。備中国鴨方藩の第7代藩主。
略歴
[編集]第6代藩主・池田政養の次男[2]として誕生した。幼名は陽吉、勇吉。
文政2年(1819年)、父の死去により跡を継ぐ。文政7年(1824年)5月22日、国元へ向かう途上、摂津国郡山(現大阪府茨木市)にて19歳で死去した[2]。ただし、幕府には6月28日(1824年7月24日)死亡として届出された[2]。跡を同母弟の政広が一旦は継いだが、病弱なため内密に異母弟の政善にすり替わった[2]。墓所は岡山県岡山市中区小橋町の国清寺。