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池田政共

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
池田 政共
時代 江戸時代後期
生誕 文化3年11月2日[1]1806年12月11日
死没 文政7年5月22日[2]1824年6月18日
改名 陽吉、勇吉、政共
墓所 岡山県岡山市中区小橋町の国清寺
官位 従五位下信濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
備中鴨方藩
氏族 池田氏(利政流)
父母 父:池田政養、母:兼子(池田治政娘)
兄弟 政共政広政善水野元茂
正室:志賀松平忠馮の娘)
養子政広政善
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池田 政共(いけだ まさとも)は、江戸時代後期の大名備中国鴨方藩の第7代藩主

略歴

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第6代主・池田政養の次男[2]として誕生した。幼名は陽吉、勇吉。

文政2年(1819年)、父の死去により跡を継ぐ。文政7年(1824年)5月22日、国元へ向かう途上、摂津国郡山(現大阪府茨木市)にて19歳で死去した[2]。ただし、幕府には6月28日(1824年7月24日)死亡として届出された[2]。跡を同母弟の政広が一旦は継いだが、病弱なため内密に異母弟の政善にすり替わった[2]。墓所は岡山県岡山市中区小橋町の国清寺

系譜

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  • 父:池田政養(1772年 - 1819年)
  • 母:兼子 - 瑞松院、池田治政の娘
  • 正室:志賀 - 松平忠馮の娘
  • 養子
    • 男子:池田政広(1811年 - 1839年) - 池田政養の三男または四男
      • 異母弟の池田政善(1811年 - 1846年)と内密ですり替わっており、表向きは政善が養子になったとされる。

脚注

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  1. ^ 池田政共』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e 大森映子『お家相続 大名家の苦闘』(吉川弘文館)p.83-99