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永円

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
えいえん
永円
天元3年 - 長久5年5月20日
980年 - 1044年6月18日
尊称 平等院大僧正、平等院宮大僧正
宗派 天台寺門宗
寺院 園城寺三井平等院
余慶慶祚
弟子 円信
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永円(えいえん、天元3年(980年) - 長久5年5月20日1044年6月18日))は平安時代中期の天台寺門派の僧侶。致平親王の第二子で一身阿闍梨。三井平等院(円満院)初代院主で[1]平等院大僧正[2][3]平等院宮大僧正[4]と呼ばれる。

概要

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致平親王の第二子で[2]、母は源雅信の女[5]余慶(919-991)に入室し、慶祚天台宗を学んだ[2]長保3年(1001年)に出家した源成信と同一人物だとする説がある [6]

寛弘8年(1011年)4月27日に大僧都済信の譲りを受けて権律師となる[7][2]。同年7月、一条天皇葬送の定文にて、百僧の中に入っている[8]

長和4年(1015年)10月25日、道長五十賀の法会に引頭をつとめた[9][10]。5年(1016年)2月27日、後一条天皇の即位慶賀のため参入した[9]

寛仁元年(1017年)、十社御読経の定文にて、平野神社を任されている[11]。2年(1017年)8月29日、東宮敦良親王加持した[9]。3年(1018年)9月27日、受戒のため東大寺に向かう藤原道長の前駆を務める[12]

万寿元年(1024年)5月28日、車に乗って鴨川を渡っていたところ、増水して車が押し流された。永円は車からはなれて、水に入ったところを付近で畠を作っていた法師に救助された[12]

万寿3年(1026年)1月19日、藤原彰子出家に請用され、彼女の御頂を剃った[13]。閏5月28日、皇后藤原威子が懐妊したため(章子内親王)、御祈のため三井寺般若御読経をした[14]。10月10日、そのお産のための五壇法大威徳明王法を修した[15]。12月、四壇法を修した[16]

万寿4年(1027年)9月16日、藤原妍子の葬儀にて、藤原頼任が御骨を持ち木幡に向かうのに付き添った[17]。12月28日、妍子の四十九日で七僧を務めた[12]

長元元年(1028年)11月4日、藤原道長の一周忌で七僧を務めた[12]。3年8月21日、彰子の御堂供養で唄師を務め、法印位を給わった[12]。7年9月23日の一切経供養の定分にて、呪願を任されている[18]

長元9年(1036年)4月22日、後一条天皇の遺体を上東門院に遷す際、遺体を乗せた車の後ろに伺候した[14]。5月19日、後一条天皇の葬儀で念仏した[14]

長暦2年(1038年)6月18日、大僧正を辞し、弟子の円信(源道方の子)を権律師に申任した[2]。4年(1040年)1月27日、後朱雀天皇法成寺行幸により、封戸75戸を賜った[2][19]長久5年(1044年)5月20日、65歳で入滅した[2]

僧歴

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『五十音引僧綱補任 僧歴綜覧』による

参考文献

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脚注

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  1. ^ 圓満院
  2. ^ a b c d e f g 『五十音引僧綱補任 僧歴綜覧』
  3. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “永円とは”. コトバンク. 2023年5月25日閲覧。
  4. ^ 『小右記』万寿3年閏5月5日
  5. ^ 尊卑分脈
  6. ^ 小学館 1995, p. 122.
  7. ^ a b 『権記』
  8. ^ 『権記』寛弘8年6月25日
  9. ^ a b c 『御堂関白記』
  10. ^ 思文閣出版 1993, p. 78.
  11. ^ 『小右記』寛仁元年10月25日
  12. ^ a b c d e 『小右記』
  13. ^ 『小右記』、『左経記』、『権記』
  14. ^ a b c d 『左経記』
  15. ^ 『小右記』万寿3年10月9, 10日。『左経記』万寿3年10月10日
  16. ^ 『左経記』万寿3年12月13日
  17. ^ 『小右記』万寿4年9月17日
  18. ^ 『左経記』長元7年8月27日
  19. ^ 『春記』
  20. ^ 『左経記』。『僧綱補任』では25日
  21. ^ 『小右記』。『僧綱補任』では21日
  22. ^ 『小記目録』、『左経記』。『僧綱補任』では26日

関連項目

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