松平忠充
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 慶安4年(1651年) |
死没 | 享保14年12月4日(1730年1月22日) |
改名 | 勝千代(幼名)→忠充 |
別名 | 通称:数馬 |
戒名 | 永固院殿史道基覚翁大居士 |
墓所 | 東京都文京区小日向の徳雲寺 |
官位 | 従五位下佐渡守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 伊勢長島藩主 |
氏族 | 久松松平家康元流 |
父母 | 父:松平康尚、母:不詳 |
兄弟 | 忠充、良重、榊原良兼[1]、定員[2]、某、松平綱近正室、植村政行室、酒井忠垠正室ら |
妻 | 正室:松平典信の娘 |
子 | 忠章、康顕、康郷、岩城秀隆正室、松平忠一正室、女子ら |
松平 忠充(まつだいら ただみつ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。伊勢国長島藩の第2代藩主。官位は従五位下・佐渡守。
生涯
[編集]慶安4年(1651年)、伊勢長島藩の初代藩主・松平康尚の次男として長島で誕生。貞享2年(1685年)10月7日、父が病気を理由に隠居したため家督を継いだ。
しかし貞享4年(1687年)10月には些細なことから家臣3人を追放するなど、早くも暗君としての片鱗を現していた。この資質は父の死後の元禄15年(1702年)8月15日、重臣3人を切腹させ、さらにその子4人を死刑にするという乱行で現れる。この事件の遺族が幕府に訴えたため、この乱行は幕府の知るところとなり、8月21日に狂気であるとして改易に処された。
しかし徳川家康の異父弟松平康元に繋がる家系のため、特別の配慮をもって四男・康顕(やすあき)に信濃国佐久郡5,000石(下県知行所)、五男の尚慶(なおよし)も同地1,000石の旗本として存続を許された。康顕はその後早世し、尚慶が兄の跡を継ぎ康郷(やすさと)と名乗り、明和2年(1765年)下総国飯笹6,000石に転封。子孫は同地で交代寄合旗本として存続した。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「寛政重修諸家譜 巻第52」