本多忠統
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 元禄4年6月18日(1691年7月13日) |
死没 | 宝暦7年2月29日(1757年4月17日) |
改名 | 恒弥(幼名)、忠統 |
諡号 | 奇蘭、大乾、宗範、拙翁 |
戒名 | 長徳院浄誉拙翁円徹 |
墓所 | 東京都江東区白河の霊巌寺 |
官位 | 従五位下、伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 若年寄 |
藩 | 河内国西代藩主→伊勢国神戸藩主 |
氏族 | 本多氏 |
父母 | 父:本多忠恒 |
兄弟 | 仙千代、忠統 |
妻 | 正室:加藤明英の娘、側室:松氏 |
子 | 康桓、小笠原信胤、忠篤、忠栄(四男)、忠永、忠明(六男)、忠国(八男)、康政、娘(藤堂良由正室)、娘(藤堂良端養女)、娘(松平信敏正室)、娘(本多忠英正室のち吉田良延室) |
本多 忠統(ほんだ ただむね)は、河内西代藩主。のち伊勢神戸藩初代藩主となる。江戸幕府の若年寄として、享保の改革期における幕政に参与した。神戸藩本多家2代。「猗蘭侯」と称し、書画や儒学に通じた文人大名としても知られた。
生涯
[編集]西代藩主時代
[編集]元禄4年(1691年)6月18日、近江国・河内国で1万石を領した本多忠恒の次男として生まれる。兄の仙千代が早世したために世子となり、宝永元年(1704年)に父が死去したため、家督を継いだ。
宝永4年(1707年)3月23日、第5代将軍・徳川綱吉の小姓となり、綱吉死後の宝永6年(1709年)2月21日まで務めた。正徳元年(1711年)には河内国西代(大阪府河内長野市西代町)に陣屋を定めている。享保4年(1719年)9月3日に大番頭に任じられた後、享保9年(1724年)12月23日には奏者番と寺社奉行を兼任する形で任命され、享保10年(1725年)6月11日には若年寄に任じられて、第8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に参与することとなった。享保15年(1730年)4月9日には勝手掛に任命された。
神戸藩主時代
[編集]享保17年(1732年)4月1日、伊勢神戸藩に移封となる。享保の改革では、松平乗邑と共に吉宗を助けて改革を推進した。その一方で享保の大飢饉において神戸藩が大被害を受けると、窮民救済に努めている。延享2年(1745年)、吉宗の命令で徳川家重付の家臣となり、同時に5000石加増と神戸城築城も認められ、1万5000石の大名となる。
延享4年(1747年)に江戸城内で肥後熊本藩主・細川宗孝が板倉勝該に斬殺されるという事件が起こると、その解決や細川家存続に尽力している。寛延3年(1750年)、病気を理由に若年寄を辞任し、11月19日には五男の忠永に家督を譲って隠居した。宝暦7年(1757年)2月29日に死去。享年67。
当時においては、茶人としても有名で、茶名を「宗範」と称した。
系譜
[編集]父母
正室
- 加藤明英の娘
側室
- 松氏
子女
- 本多康桓(長男)
- 小笠原信胤(次男)
- 本多忠篤(三男)
- 本多忠栄(四男)
- 本多忠永(五男)
- 本多忠明(六男)
- 本多忠国(八男)
- 本多康政(九男)
- 藤堂良由正室
- 藤堂良端の養女
- 松平信敏正室
- 本多忠英正室のち吉田良延室
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 神戸侯本多氏(図書印の画像あり)
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