木下晋

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木下 晋
(きのした すすむ)
誕生日 (1947-06-04) 1947年6月4日(76歳)
出生地 日本の旗 日本 富山県富山市
国籍 日本の旗 日本
芸術分野 鉛筆画
影響を受けた
芸術家
麻生三郎木内克
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木下 晋(きのした すすむ、1947年昭和22年〉6月4日[1] - )は、日本画家鉛筆画の第一人者といわれる[2]富山県富山市出身[3]

中学時代より美術に傾倒し、地元の油絵教室に通う。後に木内克麻生三郎に師事[1]1963年(昭和38年)、自由美術協会展にクレヨン画を出展し、最年少(16歳)で入選して注目を浴びる[4][5]。1969年22歳のとき村松画廊で開かれた初個展で、評論家・瀧口修造と出会う。

1981年(昭和56年)にアメリカに進出するが、現地の画廊での売り込みに失敗[1]。自分ならではの作品制作への思いを強くし、モノクロームの表現に注目して鉛筆画を始める[5][6]

同1981年、美術評論家の洲之内徹の紹介により「最後の瞽女」といわれる小林ハルに出逢う。1983年(昭和58年)より小林をモデルにした制作活動を開始し、これが木下の代表作の1つとなる[3]。この制作を通じて、9Hから9Bの22段階の硬さのイギリス製鉛筆を色彩のように使い分ける、独自の技法を確立する[2]。1992年45歳のとき、念願だったニューヨーク(キーンギャラリー)での個展が実現する。小林死去直前の2005年(平成17年)にはハンセン病回復者の詩人である桜井哲夫に出逢い、翌2006年(平成18年)より桜井の肖像画が新たなライフワークとなる[2][7]

ほかにも軽度の知的障害を患っていた実母、小説『痴人の愛』のヒロインのモデルとされる和嶋せい(葉山三千子)の晩年の姿、山形県鶴岡市注連寺の天井絵画などを描いており[8]、多彩な濃淡の鉛筆によって対象の陰影を克明に捉えた画[6]、鉛筆1本で人物画の髪や顔の皺1本1本まで描くような細密な作品で知られるようになる[2][5]2013年(平成25年)、紺綬褒章を受章[3]

制作活動の傍ら、東京大学工学部建築学科講師、武蔵野美術大学造形学部油絵科講師、新潟薬科大学講師、金沢美術工芸大学大学院専任教授を歴任したほか、名古屋芸術大学客員教授も務める[3]。画文集に「祈りの心」(求龍堂)、絵本「ハルばあちゃんの手」「はじめての旅」(福音館書店)などがある[9]

72歳の時に初の自伝「いのちを刻む」を刊行した。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 木下晋『祈りの心 木下晋画文集』 木下晋資料、求龍堂、2012年4月17日、42-43頁。ISBN 978-4-7630-1205-0 
  2. ^ a b c d 「心の光と闇映す 町田・木下さん、元ハンセン病患者を鉛筆画に 南青山で展示」『朝日新聞朝日新聞社、2009年2月11日、東京版、26面。
  3. ^ a b c d 鉛筆のチカラ 木下晋・吉村芳生展”. 熊本市現代美術館 (2014年). 2016年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月10日閲覧。
  4. ^ 木下晋「祈りの時代」展」『HIDDEN CHAMPION』、2012年7月24日。2016年12月10日閲覧。
  5. ^ a b c 林洋子「ホルベイン 画家たちの美術史」(PDF)『美術手帖』第60巻第914号、美術出版社、2008年10月1日、127-130頁、NCID AN00207516オリジナルの2016年12月8日時点におけるアーカイブ、2016年12月10日閲覧 
  6. ^ a b 「鉛筆の世界、木下さんの56点 平塚市美術館、6月10日まで」『朝日新聞』、2012年4月21日、神奈川、28面。
  7. ^ 木下晋が描いた小林ハル展」』(PDF)(プレスリリース)三条市、2010年6月11日。 オリジナルの2016年12月9日時点におけるアーカイブhttps://megalodon.jp/2016-1208-0737-45/www.city.sanjo.niigata.jp/common/000041894.pdf2016年12月10日閲覧 
  8. ^ 木下晋他 著、米澤敬他編 編『ハンセン病日本と世界 病い・差別・いきる』工作舎、2016年2月10日、55頁。ISBN 978-4-87502-470-5 
  9. ^ 三上美絵. “木下晋”. ハンセン病制圧活動サイト Leprosy.jp. 2016年12月10日閲覧。