日谷城
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日谷城 (石川県) | |
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別名 | 日屋城、檜屋城、檜ノ屋城 |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | 一向一揆勢 |
築城年 | 天文年間 |
主な改修者 | 戸次広正 |
主な城主 | 一向一揆勢、朝倉氏、佐々長穐 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 土塁、堀 |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯36度16分44.4秒 東経136度20分12.5秒 / 北緯36.279000度 東経136.336806度 |
地図 |
日谷城(ひのやじょう)は、石川県加賀市にあった日本の城(山城)。日屋城、檜屋城、檜ノ屋城などとも書かれる。
直下川と日谷川の合流点の東にある標高118mの丘陵に位置し、北西約4kmの所にある大聖寺城の支城として運用された。約10個の郭が堀や土塁などで囲まれ、主郭は一辺40m程であった。また、北側の尾根にも小郭群があったという。
歴史
[編集]天文年間に加賀国の一向一揆勢が築城したとされる。1555年(天文24年)の朝倉宗滴の加賀侵攻の際、大聖寺城とともに落城し朝倉氏の勢力下になった[1]。1567年(永禄10年)に堀江景忠が一向一揆とともに朝倉義景に反乱をおこした後、足利義昭による調停の条件として同年12月15日(1568年1月24日)に大聖寺など他の4城とともに焼払われた[2]。その後、1575年(天正3年)に織田信長が加賀に侵攻して、江沼郡・能美郡を占領した際に大正寺城とともに修復され、戸次広正、佐々長穐らが城主となっている[3]。広正らは加賀の平定に失敗したため、後任として佐久間盛政が入った。廃城年代は不明。
所在地
[編集]アクセス
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館