簗田広正

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簗田広正
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正7年6月6日1579年7月9日
改名 別喜/戸次右近
別名 別喜、戸次(氏)、正次、正広、宗行(諱)、左衛門太郎、出羽守
戒名 前羽州太守景巌宗徳禅定門
官位 右近大夫
主君 織田信秀信長
氏族 尾張梁田氏
父母 父:簗田政綱
長教

簗田 広正(やなだ ひろまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。のちに別喜(戸次)姓を下賜されて、別喜右近もしくは戸次右近と名乗っている。

概要[編集]

簗田政綱(出羽守)の子として誕生。織田信長に仕え、尾張国九之坪城沓掛城の城主であった。

元亀元年(1570年)の浅井攻めでは小谷よりの殿軍を務め、天正3年(1575年)、朝廷からの叙任で羽柴秀吉明智光秀塙直政らに混じって叙位任官を受けて右近大夫となり、九州の名族である別喜(戸次)の姓を下賜された。天正4年(1576年)に加賀国の旗頭になり、大聖寺城を与えられて加賀一向一揆の討伐に当たる。しかし兵力が不足し、調略もうまくいかず討伐は失敗し、尾張に召還された。天正6年(1578年)、織田信忠に属し、別所長治の反乱に対応している。

名は一般に「広正」と言われているが、『尾張群書系図部集』ではその名は父・出羽守の実名とし、別喜右近の実名は正次としている。いずれにしても父子ともに実名は同時代史料では確認できず、広正・正次いずれの説も決定打に欠ける。また同資料によると、子・長教は天正10年(1582年)、甲州征伐の際に信濃国鳥居峠の戦いで戦死。孫の教貞織田信雄に仕えたとしている。なお『寛政重修諸家譜』では「梁田出羽守」の子を正勝としている。正勝の家は江戸幕府旗本として最大で1,200石を領したが、正勝の曾孫の代で無嗣断絶している。

出典[編集]

関連項目[編集]