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川勝広運

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川勝広運
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政11年9月9日1828年10月17日[1]
死没 明治8年(1875年6月29日
改名 蓬仙(煎茶道の号)
別名 縫殿助(通称)、広一
墓所 東京都台東区谷中霊園
官位 従五位下丹波守、美作守、備後
幕府 江戸幕府 勘定奉行大目付若年寄
主君 徳川家定家茂慶喜
氏族 川勝氏
父母 父:小笠原長貴、母:酒井忠道の娘
養父:川勝左京
兄弟 小笠原貴富小笠原長保小笠原長満
川勝広運小笠原長守
女子(森長国室)、女子(屋代忠規室)
鍵之輔(四男)、娘(庄田安興の妻)
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川勝 広運(かわかつ ひろかず)は、江戸時代後期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の12代当主。明治維新後、東京府参事となった。名は「広一」と記される場合もある。

生涯

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文政11年(1828年)、越前勝山藩主の小笠原長貴の五男として江戸に生まれた。『江戸幕臣人名事典(全一巻)改訂新版』等の記述によった。『幕末維新人名事典』には、父は駿府定番川勝中務広業とある。

嘉永4年(1851年)に川勝中務広業の子で旗本の川勝左京の養子となった。文久2年(1862年)4月8日、小栗忠順の推挙により、小姓組講武所砲術教授方出役から目付となり、同年7月5日に勘定奉行勝手方となった。同年閏8月3日、松平慶永らの主張する幕政改革により新設され、寺社奉行牧野貞直など12名が任命された政事改革御用掛に任命され、勘定奉行と兼務した。文久3年(1863年)8月14日、陸軍奉行並となったが、元治元年(1864年)8月19日に寄合となった。慶応元年(1865年)7月10日、長崎奉行並となったが、同年7月晦日に職を辞した。同年11月26日に大目付となり京都詰を勤め、滝川具挙と共に長州征討の参謀役を担当した。慶応3年(1867年)4月7日、養父左京の家督(丹波内2,570石余)を継ぎ、同年6月17日に若年寄並となった。

慶応4年(1868年)正月23日、恭順派に与して若年寄に進み、戊辰戦争の際は勝海舟大久保一翁らと共に江戸開城に尽力した。

明治維新後、大久保一翁東京府知事の下で、明治6年(1873年)から東京府参事を務めた。明治5年(1872年)9月12日、新橋・横浜間鉄道開通式当日、明治天皇の乗られた四頭立ての馬車を、広運(東京府知事代理権参事)は騎馬で先導する栄誉を授かっている[2]

若い頃から煎茶を嗜み、蓬仙(ほうせん)と号した。茶器の解説書として知られる『蓬仙茶話・茶器篇』慶応3年(1867年)刊を執筆している。自身は中国風の茶を好んで、江戸(東京)煎茶界に少なからぬ影響を与えたとされる。

明治8年(1875年)6月29日、東京・蛎殻町において48歳で没した。

脚注

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  1. ^ 国民過去帳 明治之巻』(尚仏房、1935年)p.58
  2. ^ 『日本鉄道史(上篇)』鉄道省。新橋・横濱間開通式当日の状況より。

参考文献

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  • 熊井保編『江戸幕臣人名事典(全一巻)改訂新版』新人物往来社、1997年
  • 小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典(第2巻)』東洋書林、1998年
  • 『煎茶の用語集』主婦の友社、茶の湯案内シリーズ13、1988年
  • 『日本鉄道史(上篇)』鉄道省、1935年
  • 宮崎十三八・安岡昭男編『幕末維新人名事典』新人物往来社、1994年
  • 奈良本辰也監修『幕末維新人名事典』學藝書林、1978年


先代
某・左京
川勝継氏系秀氏流(本家)
12代:1867年 - 1868年
次代
-