島津忠高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
島津忠高
時代 江戸時代前期
生誕 慶安4年3月4日1651年4月23日
死没 延宝4年8月11日1676年9月18日
改名 又四郎、忠高
別名 万寿丸、堯英坊、国久、久英
戒名 松厳院殿隆誉崇雲良心居士
墓所 宮崎県宮崎市佐土原町の高月院
官位 従五位下飛騨守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
日向佐土原藩
氏族 島津氏
父母 島津久雄島津光久長女御満
亀井茲政竹井満直娘松寿院
惟久久寿
テンプレートを表示

島津 忠高(しまづ ただたか)は、江戸時代前期の大名日向国佐土原藩4代藩主。国久、久英とも名乗る。官位従五位下飛騨守

略歴[編集]

3代藩主・島津久雄の長男として江戸にて誕生。幼名は又四郎。

寛文3年(1663年)、父の死去により跡を継ぐ。寛文6年(1666年)、幕府に反抗的であった日蓮宗不受不施派日講が佐土原に配流されるとその講義を受け、やがて帰依した。藩政においては藩士の格式や知行の制定など、人事面の確立に尽力している。

延宝4年(1676年)8月11日、26歳で死去した。死後、子の万吉丸(後の惟久)は幼少のため、従弟の久寿が養子となって跡を継ぐこととなった。法号は松厳院殿隆誉崇雲良心居士。墓所は宮崎県宮崎市佐土原町の高月院。

系譜[編集]

父母

正室

側室

子女

養子


脚注[編集]

  1. ^ 2代藩主・島津忠興の次男