山崎治敏
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山崎治敏 | |
時代 | 江戸時代後期 - 昭和時代 |
生誕 | 安政5年2月14日(1858年3月28日) |
死没 | 昭和14年(1939年)6月27日 |
改名 | 運之進(幼名)、治敏 |
別名 | 松翁(号) |
戒名 | 韶徳院殿雪巌玄道大居士 |
墓所 | 岡山県高梁市成羽町下原の桂厳寺 |
官位 | 従五位、従二位 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 備中成羽藩知藩事 |
氏族 | 近江山崎氏 |
父母 | 山崎治正、細川行芬娘 |
兄弟 | 治祇、織田信親、治敏、京極寿吉、徳子ら |
妻 | 小笠原長守娘 |
子 | 治男、錠子 |
山崎 治敏(やまざき はるとし)は、備中国成羽藩3代藩主(知藩事)。
生涯
[編集]初代藩主山崎治正の三男として生まれる。明治4年(1871年)3月22日、従五位となる。同年4月12日に同母兄の治祇の隠居にともない家督を相続し、4月14日に知藩事に就任したが、7月15日に廃藩置県により免官となる。
明治17年(1884年)6月、陸軍予科士官学校の生徒となった。同校は華族の子弟を対象とした特別コースであり、他の出身者に松浦靖、高倉永則らがいる。同年7月8日、男爵を叙爵した[1]。明治18年(1885年)9月、同校は退学者が多く廃止となったため、退学した。
昭和14年(1939年)6月27日、81歳で死去した。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 (成羽)山崎家初代 1884年 - 1939年 |
次代 山崎治男(従四位) |