小田部統房

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小田部統房
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄11年(1568年
死没 元和9年7月22日1623年
改名 源次郎、次郎兵衛、新介、統房、宗然(号)
別名 通称:土佐守、膳左衛門
戒名 大乗院殿廓伝宗然大禅定門
官位 土佐守
主君 大友義統立花宗茂田中吉政田中忠政立花宗茂
柳川藩
氏族 源姓渡辺氏松浦氏小田部氏
父母 父:小田部鎮元、母:多摩子[注釈 1]
兄弟 鎮虎[注釈 2]統房、三吉[注釈 3]
於千代(高橋鎮種の次女、立花宗茂の妹[注釈 4]
本多俊次室(立花宗茂養女)、小田部鎮教室、小野茂高室(立花宗茂養女)
養子:小田部鎮教[注釈 5]
妾腹:小田部主税[注釈 6]岡田吉門[注釈 7]
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小田部 統房(こたべ むねふさ、永禄11年(1568年[注釈 8] - 元和9年7月22日(1623年))は、戦国時代武将豊後国大名大友氏、その重臣戸次氏立花氏の家臣。筑後国柳河藩士。家紋は丸内上三星下二引両[2]

生涯[編集]

永禄11年(1568年)、大友家臣・安楽平城主・小田部鎮元[注釈 9][3]の次男として生まれる[4][5]。その性格は「天資剛勇絶倫威武も屈せず」と伝わる[6]

天正8年(1579年)7月18日、龍造寺隆信の次男江上家種原田親秀執行総兼らの連合軍5千が安楽平城を攻略しに来た。小田部鎮元はよく抗戦したが、家臣の大教坊兼光が池田城で龍造寺軍に寝返った。この状況に対して鎮元は覚悟をもって安楽平城で長期籠城の態勢に入った(第二次安楽平城攻防戦)[7]

9月11日の池田城・第三次荒平城攻防戦で、龍造寺軍に寝返った大教坊兼光を討伐するために、小田部鎮元と嫡男・九郎と鷲ヶ岳城から支援しにきた一族の大津留宗逸が安楽平城を出て大教坊一族を悉く討ち取って池田城を取り戻したが、龍造寺軍に攻められて、共々討ち死にした。この後、安楽平城本丸に、祖父・大津留鎮正[注釈 10]の補佐を受け小田部家督として認められた統房を支持するために、小田部家臣達が敵勢を抵抗し続けている[8][9][10][11][12][13][14]

天正8年(1580年)4月中旬、安楽平城の兵糧が尽くしたので、主君・大友義統の同意を得た後、豊後から来た小佐井・臼杵勢に城を渡って、統房ら小田部一族は下城、立花山城立花道雪の庇護を受けた[8][9][10][11][12][13][14]。同年7月7日、安楽平城は龍造寺軍によって攻め落ちいた[15]

天正13年(1585年)9月11日、道雪は筑後遠征の最中に病で死去した。統房はその後継者立花宗茂に従って、3月に立花山城に攻めてきた秋月種実を夜襲するに参戦した。天正14年(1586年)に島津軍の侵攻を防ぎ、8月25日の高鳥居城攻略で右目を射られて傷を負いながらも戦功を立てた[16][17]

天正15年(1587年九州征伐の後、立花宗茂が筑後柳川13万石の領主となると、2000石を与えられる。その後、側近重臣・参謀・軍奉行の一人として、同年9月下旬の肥後国人一揆鎮圧や、朝鮮出兵関ヶ原の戦いなどで戦功を挙げる[18][19]

立花宗茂が西軍は関ヶ原の戦いで敗北した情報を知った後、人質の宗茂の母・宋雲院と島津義弘の夫人を救出するに命じられて無事救出した[20]

立花家改易後、田中吉政に仕え、1千石を与えられ、矢部川から久末あたりまでの岩神水路工事を任せられた。慶長11年(1606年)に家督を養子の小田部鎮教に譲り隠居した後も田中吉政に政事について意見を求められるという[21]。吉政の死後、その子の田中忠政大坂の陣に参戦すべきと諫めたが、結局軍費不足のため出兵を実現できず、忠政も無嗣のまま死去なので、田中家は改易された[22]

元和6年(1620年)、立花宗茂は旧領柳川に復帰、統房ら小田部一族も立花家に戻り、養子の小田部鎮教は番頭役1千石を与えられた。統房は隠居をしながらも、宗茂に部分の領地を久留米藩に譲り、その代わりに矢部村を柳川藩領に加入することで農地の灌漑に有利だという意見を出して、その実現に尽力し、幕府の代官・岡田善同を訪ねた[23][24]。翌年、十時連貞由布惟次と共に藩領検地の担当者としても多大の功績を残した[25]

元和9年(1623年)7月22日、隠居地の久末に死去した。戒名は大乘院殿廓傳宗然大禪定門[26][27]

小田部家の伝統[編集]

文禄の役の「碧蹄館の戦い」に参戦する時、統房が「黒漆塗本小札藍韋威大袖」を宗茂に進上したことを吉例として、後世にも藩主に大袖を献上したことが、「安政四巳年御召御具足調帳」の記録からわかる[28][29][30]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 大友宗麟の異母妹。小田部昭典『小田部軍物語』P.77~78
  2. ^ 九郎、統房、統種。異説では中村兵衛門。[1]
  3. ^ 異説では中村太郎。小田部昭典『小田部軍物語』P.76~78
  4. ^ 慶長2年(1597年)7月17日病没、享年25歲。法名栄長院殿梅宕松春大姉。筑後久末村に葬った。小田部昭典『小田部軍物語』P.139~141
  5. ^ 安太夫、右馬助、土佐守、鎮孝とも。実は米多比鎮久の次男。『柳河藩享保八年藩士系図・上』第一分冊 小田部 P.228
  6. ^ 新介、右馬助とも。『柳河藩享保八年藩士系図・上』第一分冊 小田部 P.229
  7. ^ 岡田修理進。立花家寛永年間の与力組。『柳河藩享保八年藩士系図・上』第一分冊 小田部 P.229
  8. ^ 1580年安楽平城落城の際13歳の記録があるの逆推。一説は1571年。元和9年に53歳で死去していることからの推測。
  9. ^ 名は大鶴九郎俊之、民部少輔鑑湖、長門守鎮通、鎮道、鎮元、道魁、紹叱とも。大津留鎮正の次男。祖父・小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の跡を継ぐ。『宗像記追考』荒平城 小田部氏 P.538~540
  10. ^ 名は大鶴九郎、上総介、式部少輔鎮俊、相模守鎮正、小田部上総入道宗雲、浄慶とも。小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の子、大津留(大鶴)左馬頭長清の跡を継ぐ。『宗像記追考』鷲嶽城 大鶴氏 P.537~538

出典[編集]

  1. ^ 吉永正春『筑前戦國史』荒平城主小田部氏の最期 p.125~127
  2. ^ 小田部昭典『小田部軍物語』P.10
  3. ^ 有田・小田部 第22集 福岡市埋蔵文化財調査報告書第427集 第2章 有田・小田部の歴史
  4. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・上』第一分冊 小田部 P.227
  5. ^ 小田部昭典『小田部軍物語』P.45~48
  6. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十二節 柳川人物小伝(二)小田部土佐 830頁
  7. ^ 小田部昭典『小田部軍物語』P.62~65
  8. ^ a b 吉永正春『筑前戦國史』荒平城主小田部氏の最期 p.120~127
  9. ^ a b 安楽平落城 筑前大友五城
  10. ^ a b 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.103~104
  11. ^ a b 『筑後将士軍談』 卷之第十二 大鶴小田部戦死之事 P.322
  12. ^ a b 宗像記追考 P.538~540
  13. ^ a b 小田部昭典『小田部軍物語』P.65~74
  14. ^ a b 筑前國續風土記 卷之二十八 古城古戦場 早良郡 安楽平城址
  15. ^ 福岡市博物館 戦国時代の博多展8 安楽平城攻防について アーカイブ 2019年12月30日 - ウェイバックマシン
  16. ^ 小田部昭典『小田部軍物語』P.105~112
  17. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.287~288。
  18. ^ 小田部昭典『小田部軍物語』P.116~139
  19. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十八) 小田部新介小傳 P.249頁
  20. ^ 小田部昭典『小田部軍物語』P.197~198
  21. ^ 小田部昭典『小田部軍物語』P.202~204
  22. ^ 小田部昭典『小田部軍物語』P.205~207
  23. ^ 小田部昭典『小田部軍物語』P.209~211
  24. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十八) 小田部新介小傳 P.249~250頁
  25. ^ 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二) 一〇六 小田部土佐 P.215
  26. ^ 小田部昭典『小田部軍物語』P.211~212
  27. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十二節 柳川人物小伝(二)小田部土佐 831頁
  28. ^ 黒漆塗本小札紺糸威大袖
  29. ^ 黒漆塗本小札色々威大袖
  30. ^ 黒、金本小札色々威大袖

参考文献[編集]

  • 『筑後人物便覧』(福岡県文化會館、筑後史談會、昭和10年刊の複製、1935年、68-69頁)
  • 『舊柳川藩志・下巻』(柳川山門三池教育會、渡辺村男、1957年、122頁)