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安秉範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安 秉範
生誕 1890年8月21日
ソウル
死没 1950年7月29日
所属組織  大日本帝国陸軍 大韓民国陸軍
軍歴 1914 - 1945(日本陸軍)
1945 - 1950(韓国陸軍)
最終階級 陸軍大佐(日本陸軍)
陸軍准将(韓国陸軍)
墓所 国立ソウル顕忠院第1将軍墓域232号
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安 秉範
各種表記
ハングル 안병범
漢字 安 秉範
発音: アン・ビョンボム
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安 秉範(アン・ビョンボム、안병범、あんへいはん、1890年8月21日 - 1950年7月29日)は、大日本帝国陸軍及び大韓民国陸軍軍人。最終階級は、日本軍人としては大佐、韓国軍人としては准将[1]。別名・安鐘寅、創氏改名時の日本名亀村貞信[1]

経歴

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ソウルの桂洞出身。李氏朝鮮末期に日本の陸軍中央幼年学校に留学し、1914年陸軍士官学校の第26期生卒業。歩兵第13連隊に配属[2]。同年12月25日、歩兵少尉[3]。1918年7月29日、歩兵中尉[4]。1925年3月18日、歩兵大尉[3]。1926年4月16日、歩兵第73連隊中隊長[5]。1928年5月28日、李垠殿下御付武官[6]。1933年3月18日、歩兵少佐[3]。1934年6月8日、歩兵第73連隊副官[3]。1936年3月7日、歩兵第73連隊附[7]。1939年、中佐。1943年8月2日[8]、大佐に昇進し終戦を迎える。[9]。終戦時は第124停車場司令官[10]

1945年8月末、李應俊金錫源申泰英などと共に朝鮮臨時軍事委員会を発足[11]

1949年1月、韓国陸軍士官学校第8期特別第1班で1週間の訓練を受け、任大佐(軍番12443番)、護国軍第103旅団長[12][13]。1949年8月、釜山兵事区司令官[14]。1950年1月、陸軍参謀学校修了[14]。1950年6月、青年防衛隊首都防衛隊顧問[14]

1950年6月25日朝鮮戦争が勃発すると、北朝鮮軍の急激な進攻によりソウルから脱出できず、6月29日仁王山で割腹自殺した[9]。死後、准将に追叙。また、朝鮮戦争では下の息子2人も戦死している[9]

安の遺骨は国立ソウル顕忠院に埋葬されている。

死後の評価

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2008年民族問題研究所が発表した、親日人名辞書収録予定者名簿の軍部門に選定された。

親族

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  • 長男 安光鎬:陸士第8期特別第4班[15](軍番15150番)、1953年米陸軍指揮幕僚大学留学[16]、軍事休戦委員団委員、駐米大使館付武官、予備役准将、大韓貿易振興公社社長[17]、1992年7月没)
  • 次男 安光銖:日本陸士58期卒、日本陸軍少尉、軍事英語学校卒(軍番10024番)、予備役大佐
  • 三男 安光錫:生徒2期生、戦死[17]
  • 四男 安光鎭:戦死[17]
  • 五男 安光銑:

脚注

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参考文献

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