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大船神社 (恵那市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大船神社
所在地 岐阜県恵那市上矢作町字高井戸3107番地の1
位置 北緯35度18分56.5秒 東経137度32分9.5秒 / 北緯35.315694度 東経137.535972度 / 35.315694; 137.535972 (大船神社 (恵那市))座標: 北緯35度18分56.5秒 東経137度32分9.5秒 / 北緯35.315694度 東経137.535972度 / 35.315694; 137.535972 (大船神社 (恵那市))
主祭神 白山比売命・気比大神・丹生神・高野神・稲荷大神・須我神
創建 天平宝字年間
例祭 4月第4日曜日
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大船神社(おおぶねじんじゃ)は、岐阜県恵那市上矢作町の標高1,060mの大船山に鎮座する神社

祭神

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  • 白山比売命(しらやまひめのみこと)
  • 気比大神(けひのおおかみ)
  • 丹生神(にうのかみ)
  • 高野神(たかののかみ)
  • 稲荷大神(いなりのおおかみ)
  • 須我神(すがのかみ)

歴史

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元は天平宝字年間(757年765年東大寺良弁僧正が大船山に草庵を結び聖徳太子の作と言われる救世観音菩薩を安置したことを始まりとする。

天長年間(824年834年小野篁が、東山道鎮撫使として関東方面へ下向の途次この地に本堂及び宝塔を建てた。

延喜3年(903年醍醐寺聖宝が東巡した際に弟子の宥賢が別当となり、山門を建て、自ら刻した金剛力士像を安置し、密法を灌修し初めて大船寺と命名し勅賜金榜額を揚げた。

宥賢は、寺務を権掌し前2社(丹生権現、清瀧権現)に加え4社(高野大明神、白山権現、稲荷大明神、気比大明神)を合祀し六社権現を祀った。良弁は法相宗華厳宗が本義であったが、宥賢により修験道と混淆した真言宗当山派密教寺院となった。最盛期には周辺に宿坊が三十軒以上存在したという。

天文2年(1533年)、京都醍醐寺塔頭理性院の厳助法師の紀行文『厳助往年記』には、信濃伊那郡地頭であった知久氏に招かれて文永寺の結縁灌頂会で導師を勤めた後に、大船寺の多聞坊に宿泊したという記録がある。

天正2年(1574年武田勝頼による東濃侵攻の戦乱で建物は焼かれて全て灰燼に帰した。

慶長以降に山の下に移し観音堂と六社を再興したともいう。

寛文11年(1671年)当時の大船山には大船神社・覚林坊・多聞坊・観音堂・仁王門などがあったが[1]

遠州浜松から来た権大僧都明実は、勝岳山 大船寺として宗門改めなどの寺務を執行するようになった。岩村藩主・丹羽氏純の援護を受け十年余りの歳月をかけ本堂、奥院、仁王門等を新造に近い大改造を行なった。

明実の後は、良策-無屑-寿山-昌欣-心浄と続いた。

元禄16年(1703年)8月に岩村藩に提出するために作成された『上村並枝郷共指出し控』には、大船寺について次のように記されている。

横道村 真言宗大船寺 客殿 長八間に六間、護摩堂 長七間に四間、境内長一九間に一六間屋敷地、長四七間に横一五間の畑地 代々竿除地

なお大船寺持分として横道村に次の施設を擁していた。これらは大船神社の施設でもあった、

一、大船観音堂 長五間・横四間半 一、奥院 長七尺・幅四尺四寸 一、六社権現 長二間半・横二間 一、仁王門 長三間・横一丈

安政3年(1856年)信州諏訪郡宮大工立川和四郎三代宮重により大改造が行なわれ大船山大権現本社という神社建築となり本殿の内正面上部には三体の唐獅子と波の彫刻と牡丹を咥える唐獅子などが彫られ、脇障子には、右に麒麟、左に雲の中の鳳凰などが写実的に表現され現在も残っている。

明治元年(1868年)の神仏分離令によって神仏混淆が禁止され、さらに明治5年(1872年)に修験禁止令が出されたため、大船寺は廃されて大船神社となった。祀られていた烏天狗の覚林坊の像は、現在は圓頂寺萬光寺が交替で保管している。

明治35年(1902年)の早春に失火により山門(仁王門)を惜しくも焼失した。

拝殿は、明治末期に名古屋の宮大工の名工、伊藤平左衛門 (9世)により竣工され柿葺であった屋根を銅板葺とした。

弁慶杉

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大船神社の神井の傍らに大きな杉があるが、その一つが弁慶杉と呼ばれている。目通り10.6m 樹高40mの杉の大木で、昭和34年(1959年)3月岐阜県指定天然記念物に指定された。

文治年間(1185年1190年)に源義経武蔵坊弁慶を伴い奥州下向のおり、大船寺に立寄り願書を納めて祈願し、弁慶は杉の小枝を折って土に挿して祈りを捧げた。その小枝が成長して巨木となったと伝わる。

『勝岳山大船密寺略縁起』には、次のような和歌を詠んだと記されている。

ともあらば かじとりたまへ大船の あのみちのくへ なみきこえるまで 義経

おわゑくる てきにははぐれて吉原や 大船山にのりしここちの 弁慶

松並木

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上矢作町の中心部から大船神社に至る約6kmの尾根づたいの参道には両側に江戸時代に植樹されたアカマツの並木が延々と続いている。総数は350本以上を数える。根元の幹の周囲2〜3m、目通り幹の周囲約2mのものが多い。岩村藩主は大船寺に対する信仰が厚く、その参詣の際の日除けのために植えたものだと伝えられている。昭和34年に岐阜県指定天然記念物となり、昭和58年には「日本名松百選」に選ばれた。

関連リンク

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参考文献

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  • 上矢作町史 通史編 第二章 中世 第九節 大船神社・大船寺と村 p229~p232 上矢作町史編纂委員会 2008年
  • 上矢作町史 通史編 第五章 近世の進行と寺社 第一節 仏教と寺院 p364~p365 上矢作町史編纂委員会 2008年
  • 恵那郡史 第三篇 平安時代 第十二章 神社佛教 p77 大船寺傳説 1926年

関連項目

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脚注

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  1. ^ 社殿の北方向から下に建物があったと思われる空き地が残っている。