向忠発
表示
向忠発 | |
---|---|
プロフィール | |
出生: | 1880年(光緒6年) |
死去: |
1931年(民国20年)6月24日 中華民国上海市 |
出身地: | 清湖北省漢陽府漢川県 |
職業: | 革命家 |
各種表記 | |
繁体字: | 向忠發 |
簡体字: | 向忠发 |
拼音: | Xiàng Zhōngfā |
ラテン字: | Hsiang Chung-fa |
和名表記: | こう ちゅうはつ |
発音転記: | シャン ヂョンファー |
向 忠発(こう ちゅうはつ)は中華民国の革命家。名は仲発だが、筆名の忠発で知られる。仮名は楊特生などがある。
事跡
[編集]青年時代は漢陽の軍需工場で学徒として働き、後に漢陽造幣廠で勤務した。後に埠頭人夫などにもなっている。1922年(民国11年)、中国共産党に加入し、湖北省の工会(労働組合)で活動した。後に漢冶萍公司総工会副委員長を務めている。
1926年(民国15年)、向忠発は、中共湖北区執行委員会委員となる。また、国共合作に伴い、中国国民党漢口市党部工人部部長も兼任した。このほかにも、武漢工人糾察隊総指揮、武漢工会委員長、中華全国総工会執行委員会委員なども務めている。翌1927年(民国16年)、武漢国民政府人民裁判委員会委員に任ぜられた。同年、共産党の第5回全国代表大会で中央委員に当選し、八七会議では臨時中央政治局委員に選出されている。まもなくソビエト連邦に赴き、中国共産党駐コミンテルン代表に任ぜられた。
1928年(民国17年)2月、向忠発はコミンテルン執行委員会第9回拡大全体会議に出席し、コミンテルン執行委員会委員・主席団委員に選出された。さらにモスクワで開かれた中国共産党第6回全国代表大会で向は中央委員に再選され、6期1中全会で中央政治局常務委員・中央総書記に抜擢される。しかし、向は中央宣伝部長李立三の傀儡に過ぎず、実権は李が握り、いわゆる「李立三コース」が推進された。
1931年(民国20年)初頭に李立三が失脚した頃、向忠発は帰国した。しかし6月22日、上海で国民政府により逮捕され、24日、銃殺刑に処された。享年52。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 齋藤剛『支那-機構と人物』太陽閣、1937年。
中国共産党
|
---|