加藤祐三郎

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加藤 祐三郎(かとう ゆうさぶろう、1903年明治36年〉3月30日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚第二次世界大戦末期の情報局第二部長として録音盤事件に際会。戦後は新潟県副知事、公職追放を経て[1]東北開発株式会社の副総裁を務めた。

略歴[編集]

福島県出身。1921年大正10年)会津中学4年修了で一高へ進む。東京帝国大学英法科在学中に高等文官試験に合格し、卒業後の1928年(昭和3年)内務省へ入省した。

内務属警保局保安課へ配属となり、以後台湾総督府警務局保安課、大分県青森県茨城県の各特高警察課長、栃木県宮城県の各警察部長など警察関連の職務を歴任した。大政翼賛会組織局副部長、援護局指導課長なども務めている。

1945年(昭和20年)4月、情報局第二部長(勅任)に就任し、鈴木貫太郎内閣の情報局総裁・下村海南を補佐。同年8月14日に行われた玉音放送の録音に立ち会う下村に随行したが、ポツダム宣言受諾に反対する陸軍将校らによる宮城事件を受け、下村、大橋八郎らとともに監禁された[2]

戦後は新潟県内政部長、同副知事を務めるが公職追放を受ける。1957年(昭和32年)8月から1961年(昭和36年)7月まで東北開発株式会社副総裁を務めた。

著書など[編集]

  • 『一官僚の見た昭和史』原書房、1972年
  • 『八汐』(歌集)下野短歌社、1940年
  • 『非常時に於ける特高警察の任務』新光パンフレット、1936年

出典[編集]

  1. ^ 松本 和明戦後復興期以降における新潟県の工業化の展開過程 -1945~1960年-
  2. ^ 『終戦秘史』「第三十章 下村国務相一行の監禁」

参考文献[編集]