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佐久間勝年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐久間勝年
時代 江戸時代前期
生誕 天正18年(1590年
死没 寛永7年9月28日1630年11月2日
別名 源六郎(通称)
戒名 大龍院玄銕関叟
墓所 長野県長野市穂保の貞心寺
官位 左兵衛尉因幡守従五位下信濃守
信濃長沼藩世嗣
氏族 佐久間氏
父母 佐久間勝之佐々成政
兄弟 勝年勝友勝種秋月種春室、青樟院、山口重恒室、岡田善政正室、
柴田勝重継室、大島光盛室、能勢頼重室、中川資重室、渡辺九郎兵衛室
勝盛藤掛永定
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佐久間 勝年(さくま かつとし)は、江戸時代前期の武将信濃国長沼藩の世嗣。通称は源六郎。官位左兵衛尉因幡守、のち従五位下信濃守

生涯

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天正18年(1590年)、後北条氏の家臣・佐久間勝之(のち信濃国長沼藩主)の嫡男として相模国小田原にて誕生。母は佐々成政の娘。

父に従って徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い大坂の陣に出陣し戦功をあげたという。戦後、父が信濃長沼藩主になるが、信濃水内郡内に所領5000石があり長沼城内に別館を構えたと伝える[1]寛永3年(1626年)、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の上洛の際には父と共に随行し、後水尾天皇二条城行幸にも供奉した[2]

寛永7年(1630年)、父に先立って死去。戒名は大龍院玄銕関叟。江戸で没し(『寛永諸家系図伝』)近江国高島郡中之庄村幡岳寺に葬る(『寛政重修諸家譜』)というが、いずれにも墓所は現存しない。長沼城下には勝年の菩提を弔うため石村(長野市豊野町)の神宮寺を移転して大龍院と改め、勝年の墓塔が建てられた。この寺はのちに勝年居館跡に移転され貞心寺(長野市穂保)となり、現在も墓塔と位牌がまつられている[1]

遺領は一旦収公されたものか定かでないが、長男・勝盛が寛永9年(1632年)に祖父・勝之の死去に伴い、長沼藩領から5000石の分知をうけて旗本となり「長沼知行所」を興している。

脚注

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  1. ^ a b いいづな歴史ふれあい館(2015年)p.24
  2. ^ 「寛永行幸記」に佐久間信濃守として父勝之とは別に単独で描かれている。いいづな歴史ふれあい館(2015年)p.24

出典

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参考文献

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  • いいづな歴史ふれあい館特別展図録『飯綱の地をひらいた“殿様”‐佐久間兄弟と長沼藩・飯山藩』2015年