柴田勝重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
柴田勝重墓(東京都三鷹市春清寺

柴田 勝重(しばた かつしげ、天正7年(1579年[1] - 寛永9年4月25日1632年6月12日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将江戸幕府旗本。通称は三左衛門。幼名は権六郎。 法名は浄英。

略歴[編集]

父は柴田勝政、母は日根野高吉の娘。正室は日根野吉時の娘。継室は織田長政の娘、佐久間勝之の娘、子に勝興三浦信勝勝平勝昌など。

天正11年(1583年北ノ庄城落城の折、祖父柴田勝家により愛用の兜を与えられ、郎党とともに母方の祖父である日根野高吉のもとに逃がされた。16歳で元服し勝重に名乗る。慶長4年(1599年徳川家康に仕え上野国に2000石を賜る。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いで初陣を飾る。慶長19年(1614年)・慶長20年(1615年)の大坂の役の戦功により、武蔵国上仙川村および中仙川村(現在の東京都調布市仙川町から三鷹市新川・中原にかけての一帯)および藤沢村(現在の埼玉県入間市藤沢)内500石の領地を加増される。徒歩頭を務め計3500石を領した。仙川に陣屋を築き(島屋敷)、勝淵神社を建立し勝家の兜を埋めた。兜を埋めた場所は「兜塚」と呼ばれ崇敬を集めていたが近年は荒廃していた。昭和63年に同神社氏子らの働きかけにより再整備され、現在も同神社敷地に残る。

寛永9年(1632年)に死去。享年54。三鷹市新川4丁目の春清寺には勝重を祖とする柴田氏三代の大きな墓がある[2]。法名は、揚源院殿雄山浄英居士。

脚注[編集]

  1. ^ 『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』
  2. ^ 柴田勝重墓”. 三鷹市教育センター. 2012年8月22日閲覧。