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今川義彰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
今川義彰
時代 江戸時代
生誕 宝暦6年(1756年[1]
死没 文政元年8月17日1818年9月17日[1]
改名 彦松(幼名)→義幹→義彰
別名 刑部、主馬(通称
戒名 賢亮院殿英忠雄威大居士[2]
墓所 長延寺
官位 従四位下、侍従、丹後守
幕府 江戸幕府奥高家
氏族 清和源氏足利氏今川氏
父母 父:今川義泰
小笠原政方の娘
義用 ほか
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今川 義彰(いまがわ よしあき)は、江戸時代後期の高家旗本今川義泰の子で、父に続いて高家職(奥高家)に就いた。今川家20代当主[注釈 2]

生涯

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高家今川義泰の長男として生まれる。初名は義幹(よしより)。

安永2年(1773年)8月15日、将軍徳川家治御目見する。天明4年(1784年)4月5日、父義泰の死去により家督を相続する。『寛政重修諸家譜』編纂時の今川家当主である。

享和2年(1802年)12月20日に高家職に就き、従五位下・侍従に叙任され、丹後守を称した。文化14年(1817年)3月11日には光格天皇譲位・仁孝天皇受禅に際して、将軍家斉・世子家慶の名代として京都に派遣され、その褒賞として4月28日に従四位下に昇進する。

文政元年(1818年)8月17日死去、享年63。

系譜

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寛政重修諸家譜』は子女として義用と養女を載せる。長延寺過去帳によると実子は2男3女。家督を継いだ義用以外の1男3女は夭折し、死去日と法名しかわからない。また、今川の遠い同族である瀬名貞如の娘を養女としている。いずれも長延寺に葬られている。

父母
  • 正室
    旗本小笠原政方(5000石)の五女。宝暦9年(1759年)生まれ、安永8年(1779年)7月8日に縁組。天保3年(1832年)5月29日、74歳で没し長延寺に葬られる。法名:栄寿院殿繁室良昌大禅定尼。
子女
  • 今川義用
  • 養女:早知
    旗本瀬名貞如(500石)の三女。寛政7年(1795年)11月20日没。法名:梅芳院殿南窓妙枝大姉。
  • 安永8年(1779年)1月25日没。法名:幻了童女。
  • 安永9年(1780年)10月29日没。法名:炉雪禅童女。
  • 天明5年(1785年)7月13日没。法名:秋露禅童女。
  • 天明5年(1785年)8月14日没。法名:影輪禅童子。

参考文献

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  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 長延寺・万昌院・観泉寺過去帳には8月11日没とある。
  2. ^ 家祖・国氏から数えた代数。

出典

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  1. ^ a b 『柳営補任』による[注釈 1]
  2. ^ 『今川氏と観泉寺』p.75、「近世今川家歴代法号一覧表」。