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ミハ・ツハカヤ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミハイル・グリゴリエヴィチ・ツハカヤ
Михаил Григорьевич Цхакая
მიხეილ გრიგოლის ძე ცხაკაია
1905年のツハカヤ
生年月日 (1865-05-04) 1865年5月4日
出生地 ロシア帝国クタイス県ロシア語版セナキ郡フンツィ
没年月日 (1950-03-19) 1950年3月19日(84歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
出身校 クタイス神学校卒業
チフリス神学校ロシア語版(放校)
所属政党ロシア社会民主労働党→)
ボリシェヴィキ
称号 レーニン勲章(1944年)

ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国
中央執行委員会議長
在任期間 1923年1月15日 - 1931年2月27日[1]

在任期間 1923年1月 - 1931年2月15日[2]

在任期間 1923年 - 1924年1月4日
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ミハイル・“ミハ”・グリゴリエヴィチ・ツハカヤロシア語: Михаи́л (Миха) Григо́рьевич Цхака́я1865年5月4日 - 1950年3月19日)、民族名ミヘイル・“ミハ”・グリゴリス・ゼ・ツハカイアグルジア語: მიხეილ (მიხა) გრიგოლის ძე ცხაკაია)は、グルジア人の革命家・政治家。バルソフ (Барсов)、グルゲン (Гурген)、レオーノフ (Леонов) といった党名も持つ[3]

生涯

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前半生

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1865年5月4日(ユリウス暦4月22日)、ロシア帝国クタイス県ロシア語版フンツィ (ka) で司祭の家庭に生まれた[4]クタイス神学校を卒業してチフリス神学校ロシア語版に進むも、社会主義思想を宣伝したことにより1866年に放校された[3]。その後はチフリスバトゥムやクタイスで革命活動に従事し、1892年末から翌1893年初頭にグルジア最初の社会民主主義組織「メサメ・ダシ英語版」の創立に関わった[3]1897年から5年間はカフカースを追放され[5]、翌1898年ロシア社会民主労働党に入党してエカテリノスラフの党委員会で働いた[4]。『ユージヌィー・ラボーチー』紙の編集にも関わったが[4]1900年7月に逮捕され、1902年2月まで収監された[2]

1903年3月から党カフカース同盟委員会の指導者の一人となり、1905年第3回党大会ロシア語版にも出席[3](この時、ツハカヤは40歳で最古参の代表だった[6])。同年10月にはサンクトペテルブルク・ソビエトで活動し、翌11月にはバクー・ソビエトの組織者の一人ともなった[7]。この頃にツハカヤは若きヨシフ・スターリンと出会い、その「地域主義的偏向」を理由に党を除名されかかっていたスターリンを擁護し、彼を除名から救っている[8]。以降スターリンはツハカヤに敬意を抱くようになり、翌1906年にスターリンとエカテリーナ・スヴァニゼが結婚した際は、ツハカヤも新郎側証人として式に出席した[9]。同年にはチフリス労組センター創立者となったが[7]、再逮捕され翌1907年ジュネーヴへ亡命した[3]。同年ロンドンでの第5回党大会英語版およびシュトゥットガルトでの第二インターナショナル第7回大会にも出席している[4]

1917年4月にウラジーミル・レーニン封印列車ロシア語版スイスからロシアへ戻った際に、その列車に同乗してツハカヤもロシアへ帰還した[10]フィリップ・マハラゼとともに『カフカースキー・ラボーチー』(ka)・『ブロゾラス』各紙を編集し、4月の第7回党全ロシア会議 (ru) にも出席[7]。翌5月からカフカース地方ソビエト成員、10月からボリシェヴィキ・カフカース地方委メンバーおよび議長[7]、1917年から1920年までチフリス委メンバーを務めたが、1919年6月から翌1920年5月まではグルジア民主共和国メンシェヴィキ政権によって投獄された[4]

革命後

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1920年5月からグルジア共産党英語版中央委メンバー[4]、同年8月から翌1921年6月まではコミンテルン執行委メンバー、翌7月から1922年11月までは執行委メンバー候補を務め、また1921年から1922年まではロシア社会主義連邦ソビエト共和国人民委員会議ロシア語版駐在グルジア社会主義ソビエト共和国全権代表でもあった[2]。1923年1月から1931年まではザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国中執委議長および全グルジア中執委議長、1923年から翌1924年1月4日まではグルジア共和国人民委員会議議長も務めた[2]

また、ボリシェヴィキ党大会には第10回ロシア語版第11回ロシア語版第13回ロシア語版第15回ロシア語版から第17回ロシア語版まで、コミンテルン大会には第2回英語版から第7回ロシア語版まで、ソビエト連邦最高会議には第1期から第3期まで出席し、連邦中執委幹部会メンバーでもあった[4]1928年9月から1943年5月までコミンテルン国際統制委員会メンバーを務め、1944年8月には長年の党と国家への貢献および80歳を迎えることを称して、レーニン勲章を授与された[2]

その後、ツハカヤは1950年3月19日にモスクワで死去し[4]トビリシムタツミンダ・パンテオンロシア語版へ葬られた[7]。グルジアの都市セナキは、1933年から1989年までツハカヤを記念して「ミハ・ツハカヤ」および「ツハカヤ」と呼ばれた[11]。しかし、ツハカヤの遺体はフィリップ・マハラゼシリヴェストル・トドリヤとともに、1989年末にフダドフの森 (ka) に改葬された[12]

脚注

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  1. ^ Высшие органы государственной власти СССРЗ - ЗСФСР”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2016年8月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e Цхакая Михаил Григорьевич”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2016年8月29日閲覧。
  3. ^ a b c d e ЦХАКАЯ // ФЕЛЛАХИ — ЧЖАЛАЙНОР. — М. : Советская энциклопедия, 1974. — (Советская историческая энциклопедия : [в 16 т.] / гл. ред. Е. М. Жуков ; 1961—1976, т. 15).
  4. ^ a b c d e f g h Цхакая // Франкфурт — Чага. — М. : Советская энциклопедия, 1978. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 28).
  5. ^ Цхакая, Миха (Михаил Григорьевич)”. Большая биографическая энциклопедия. 2009. 2016年8月29日閲覧。
  6. ^ На III партийном съезде”. Clow.ru: Познавательный портал. 2016年8月29日閲覧。
  7. ^ a b c d e მიხა ცხაკაია”. საქართველოს პარლამენტის ეროვნული ბიბლიოთეკა英語版. 2018年4月3日閲覧。
  8. ^ セバーグ・モンテフィオーリ(2010) 208-209頁
  9. ^ セバーグ・モンテフィオーリ(2010) 274頁
  10. ^ セバーグ・モンテフィオーリ(2010) 516頁
  11. ^ ЦХАКАЯ // М. : Большая Российская энциклопедия, 2000. — (Большой энциклопедический словарь / гл. ред. А. М. Прохоров).
  12. ^ ელისაშვილი, ალექსანდრე (2012年1月4日). “ხუდადოვის ქუჩის სასაფლაო – მეორე თანრიგის ბოლშევიკთა პანთეონი”. SOVLAB. http://sovlab.ge/ka/blog/bolshevikebis-sasaplao-aleksandre-elisahvili-sovlab 2018年4月27日閲覧。 

参考文献

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  • サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ 著、松本幸重 訳『スターリン - 青春と革命の時代』白水社、2010年(原著2007年)。ISBN 978-4560080528 
公職
先代
シャルヴァ・エリアヴァロシア語版
連邦会議議長
ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国中央執行委員会議長
グルジア共和国代表
1923年1月15日 - 1931年2月27日
次代
フィリップ・マハラゼ
先代
ヴァノ・ストゥルア
全グルジア中央執行委員会議長
1923年1月 - 1931年2月15日
次代
フィリップ・マハラゼ
先代
セルゲイ・カフタラゼ英語版
グルジア社会主義ソビエト共和国人民委員会議議長
1923年 - 1924年1月4日
次代
シャルヴァ・エリアヴァ