エルトゥールル (フリゲート)
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エルトゥールル | |
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フリゲート艦「エルトゥールル」。 | |
基本情報 | |
建造所 | イスタンブール造船所 |
運用者 | オスマン帝国海軍 |
艦種 | フリゲート |
艦歴 | |
進水 | 1853年 |
就役 | 1854年 |
その後 | 1890年9月16日座礁沈没 |
要目 | |
排水量 | 常備:2,344トン |
全長 | 76.2m |
最大幅 | 15.5m |
吃水 | 8.0m |
機関 |
型式不明石炭専焼缶-基 +2段膨脹式レシプロ機関1基1軸推進 |
出力 | (最大出力)600hp |
最大速力 | 13.0ノット(機関航行時) |
航続距離 | -ノット/-海里(石炭:400トン) |
乗員 | 320名 |
兵装 |
クルップ 15cm(-口径)単装砲8基 アームストロング 150ポンド(68㎏)単装砲5基 オチキス 3.7cm(23口径)5連装ガトリング砲2基 ノルデンフェルト 2.5cm4連装機関砲2基 |
特記のないものは改装後の諸元 |
エルトゥールル (Fırkateyni Ertuğrul) は、オスマン帝国海軍の木造フリゲート。同型艦はない。艦名はオスマン帝国の建国者、オスマン1世の父であるエルトゥールルに因む。
概要
[編集]本級はオスマン帝国海軍が自国の沿岸防衛のために国産した軍艦である。海軍大臣アブデュルアズィズによって建造が承認され、自国のイスタンブール造船所で建造された。1890年に日本を訪問した帰路に、和歌山県串本町沖で座礁し沈没した(エルトゥールル号遭難事件)。
1890年10月 - 1891年5月 遭難したトルコ軍艦「エルトゥールル号」生存者を送還および遠洋航海のため、僚艦「金剛」と「比叡」が共にコンスタンチノープルを訪問[1]。
艦形と武装
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艦形
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エルトゥールルの模型。
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遭難するエルトゥールル号を描いた絵画。
本艦の基本構造は平甲板型船体に3本の帆走用マストを持つ装甲フリゲートで、船体中央部の1番・2番マストの間に船橋を持つ艦橋が立ち、船体内部の砲郭(ケースメイト)部に主武装を左右均等に配置していた。
1864年にロンドンに回航され、1865年まで老朽化した船体の修理と共に、蒸気機関を搭載して蒸気船に改造すると共に武装の一新が行われた。
参考文献
[編集]- 「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)
- 「世界史リブレット 小松香織著 オスマン帝国の近代と海軍」(山川出版社)2004年2月出版
- 「山川歴史モノグラフ 小松香織著 オスマン帝国の海運と海軍」(山川出版社)2002年11月出版
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 海軍省水路部『軍艦比叡土耳古国航海報告』水路部、1892年6月。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Ertuğrul Gemisi günışığına çıkıyorエルトゥールルの改装後のイラストがあるページ
- TRAGEDY - ERTUGRUL FRIGATEエルトゥールルの模型があるページ。