イカモニュメント (函館市)

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イカモニュメントは、北海道函館市函館港若松ふ頭にあるモニュメントである。

解説[編集]

1989年平成元年)度から1990年(平成2年)度にかけてまとめられた、450人の市民からの631件、19団体からの31件の提言をもとに、1992年(平成4年)度から1993年(平成5年)度にかけて、国のふるさと創生事業(ふるさと創生一億円事業、正式名称「自ら考え自ら行う地域づくり事業」)の交付金の一部を活用、特産のイカをモチーフとしたモニュメントが総額約6964万円で設置された[1][2][3]

イカがモチーフになった理由は、1988年昭和63年)当時は青函連絡船の廃止と函館にとっては変革の年であり、今後の街づくりに課題があった。イカ加工(水産加工)が盛んだったこともあり、地元中小企業の経営者たちは国による函館地域のテクノポリス(高度技術集積都市)指定(1984年〈昭和59年〉)にちなんでイカノポリス計画1987年〈昭和62年〉- 1990年〈平成2年〉)と称して、イカを使った街づくりを考え、推進していた背景がある[4][5][6][7]。よってイカと関連性の強い公園の設置をとの市民要望があった[3]

デザインはイカが群れあう姿を表現している[7]。夜間はライトアップされ、函館港まつりなどで行われる大規模花火大会の際に観覧場所の一つとして利用されている[2]。1993年(平成5年)の報道によると広場の広さは約520平方メートルあり、広場整備費も含めた総工費は1億2000万円であった[3]

原資になったふるさと創生事業について、初代地方創生大臣を務めた石破茂は著書『日本列島創生論』の中で、事業実施時の総理大臣だった竹下登に「無駄遣いではないか」と尋ねたところ「それは違う。これによってその地域の知恵と力がわかる」と明かされた秘話を紹介している[8]

しかし、モニュメント自体は市民の間で賛否両論となった[9]。「観光資源にならない」[3]という反対派市民によって「イカモニュメント建設に反対する会」が結成され、施策について函館市議会の各会派陳情しにいく[10]だけでは収まらず、工事費用の公金支出差し止め訴訟(住民訴訟)が起きるという激しい反対運動が展開された。2020年令和2年)に地元出版編集者がモニュメントを利用してスケートボードを楽しむ若者にモニュメントのことを訊いてみるとその存在意図や経緯を知らなかった[3]

龍野 (1996) などによると、市はふるさと創生1億円を「主に歴史的建造物のライトアップや街路灯強化(1989年〈平成元年〉策定のファンタジー・フラッシュ・タウン基本計画〈F・F・T基本計画〉)に使用した」としている[11][12]

脚注[編集]

  1. ^ "モニュメント等の実用性のないものの設置に関する検証について" 函館市民の声 函館市 2019年3月5日更新 2023年12月4日閲覧
  2. ^ a b "ふれあいイカ広場" 函館市公式観光サイト「はこぶら」2023年12月4日閲覧
  3. ^ a b c d e 「忘れゆく失笑の黒歴史、1億円のイカモニュメント」『peeps hakodate』2020年10月号 pp.32-33
  4. ^ "<デジタル発>函館「イカノポリス計画」は今 不漁に悩むイカの街で「脱イカ」が進まないワケ" 北海道新聞 2022年9月22日15:16更新 2023年12月5日閲覧
  5. ^ "2009年度活動方針" 中小企業家同友会函館支部 2023年12月5日
  6. ^ 函館市史 通説編第4巻 p353
  7. ^ a b 現地説明版『ふれあい「イカ」広場』函館市 1994年
  8. ^ 1億円の“バラマキ”が「村営キャバレー」、「謎のモニュメント」に?! “ふるさと創生”を教訓に石破茂氏はこう考える”. デイリー新潮. 新潮社 (2017年4月21日). 2017年10月9日閲覧。
  9. ^ 函館市史 通説編第4巻 pp.698-702
  10. ^ 我が街 はこだてタウン誌50年 p.196
  11. ^ 函館における観光開発 龍野紋香 1996年[要文献特定詳細情報]
  12. ^ "街灯の色味の変更について" 函館市民の声 函館市 2020年4月21日更新 2024年1月4日閲覧

参考文献[編集]

  • 函館市史 通説編第4巻 函館市史編さん室編 函館市 2002年
  • 「街」編集室編『我が街 はこだてタウン誌50年』2013年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]