博恭王妃経子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Gwe2008 (会話 | 投稿記録) による 2019年1月23日 (水) 11:01個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (妃の正式名称に宮号をつけるのは誤りのため。)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

博恭王妃 経子
1906年頃

身位 王妃
敬称 殿下
出生 1882年9月23日
静岡県
死去 (1939-08-18) 1939年8月18日(56歳没)
日本の旗 日本東京府東京市
埋葬 1939年8月25日
豊島岡墓地
配偶者 伏見宮博恭王
子女 博義王
恭子女王
博忠王
博信王
敦子女王
知子女王
博英王
父親 徳川慶喜
母親 新村信
役職 陸海軍将校夫人会総裁
財団法人福田会総裁
テンプレートを表示

博恭王妃経子(ひろやすおうひ つねこ、1882年明治15年)9月23日 - 1939年昭和14年)8月18日)は、日本の皇族伏見宮博恭王の妃。徳川幕府15代将軍・徳川慶喜の九女。母は側室新村信高松宮妃喜久子伯母

王子女に伏見宮博義王、恭子女王、華頂宮博忠王伏見宮博信王敦子女王知子女王久邇宮朝融王妃)、伏見宮博英王

経歴

生後まもなく山田友次郎に預けられる。1885年明治18年)10月、徳川邸に戻る。1889年(明治22年)7月、姉・筆子、妹・糸子ら姉妹6人で静岡から東京に移る。1891年(明治24年)4月、明治天皇の娘・昌子内親王、房子内親王の遊び相手として、姉・国子、妹・糸子とともに赤坂離宮に招かれる。1897年(明治30年)1月9日、華頂宮博恭王と結婚。1904年(明治37年)1月15日、華頂宮から伏見宮に復籍。

1939年昭和14年)7月下旬、左胸肋膜炎になり、体調が悪化。同年8月18日に薨去。

墓地は東京都文京区豊島岡墓地

栄典

脚注

  1. ^ 『官報』第4472号、「叙任及辞令」1898年05月30日。
  2. ^ 『官報』号外、「叙任」1906年11月03日。
  3. ^ 『官報』第7578号・付録、「辞令」1908年09月28日。

外部リンク