辮髪

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辮髪
清代、一般の中国人男性の辮髪。
各種表記
繁体字 辮髪
簡体字 辫发
拼音 biànfà
注音符号 ㄅㄧㄢˋㄈㄚˋ
ラテン字 pien4fa4
発音: ピエンファー
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1661年、ヨーロッパで描かれた絵。コサックが、倒した満州人の首を掲げている。しかし、この絵は想像に基づくもので、コサックの装備や辮髪の形にいくつかの間違いがある。

辮髪(べんぱつ、弁髪、満州語ᠰᠣᠨᠴᠣᡥᠣ、転写:soncoho、モンゴル語:гэзэг 、ᠭᠡᠵᠢᠭᠡ中国語髠髪(クンファー))は、主に東アジア北方民族)の男性髪型で、頭髪を一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三編みにし、後ろに垂らした。満州族清朝中期以降の前頭部を剃り後頭部を伸ばすスタイルが有名だが、契丹族の頭頂部のみを残すスタイルや、モンゴル族モンゴル人)の両側頭部を残すスタイルなど、民族や時代により様々なスタイルの辮髪があった。古代にはテュルク系諸族も辮髪の風習を持っていた。

清朝の辮髪

満州族中国大陸を制圧(1644年)すると、敵味方の区別をするため順治帝の摂政ドルゴン漢民族にも「薙髪令」を1644年(反対に遭い一度撤廃)と1645年に出し、辮髪を強制した。儒教では毛髪を含む身体を傷付ける事は「不孝」とされ、タブーであった。そのため、漢族は辮髪導入に抵抗したが、清朝は辮髪を拒否する者には死刑を以って臨み「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」と言われた。その代わりに辮髪を行った者に対しては「髪を切って我に従うものには、すべてもとどおり安堵する」として従来の生活や慣習が行えることを保証し、科挙の存続等の様々な懐柔政策を行っている。

19世紀には辮髪は完全に普及し「中国的な風習」と見なされる様になった。例えば、明朝の衣冠制度を守る李氏朝鮮朝鮮燕行使を見ても、羨むどころか、夷狄視して侮蔑するまでになった[1]。また辮髪を止めていた太平天国の乱の民族革命軍を「長髪賊」と呼んで弾圧した程である。しかしながら、近代になると「反清」を標榜する証として辮髪を切る者も現れた。そのため、米国留学中に辮髪を切った学生は、官費留学制度から外されたり強制帰国されたりした[2]。清朝の時代であった1911年まで「薙髪令」は続き、辮髪は民族としての義務となり、僧になり出家した者と禿頭(とくとう)以外でこの辮髪にしない者は死刑を含む処罰をされた。

1911年に清朝が倒れると廃れたが、中華人民共和国成立当初の農村部で、雀駆除をする辮髪の男性の映像が残されている。

実際の日常では、体を大きく動かす動作の際に辮髪が地面に触れて汚れたり邪魔にならぬ様、縄状の毛髪部分を衣服の襟首に巻き付けたり、鉢巻の様に頭に巻くことが多かったという。

満洲族の辮髪は頭頂部の毛髪を残して剃り上げるが、漢民族の辮髪は後頭部を残して剃りあげた[3]

ポップカルチャーでの辮髪

清朝以前の中国人(漢民族)にとっては、満州族の異様な風俗に過ぎなかったが、近世における長い強制によって中国人のイメージと一体化。この間に本格的に中国と接し続けた外国人の間では、日本のゆでたまごの漫画のキャラクター、ラーメンマン(『闘将!!拉麵男』)等に代表される様に、今でもドジョウとセットでの中国人のイメージとして残っている事が多い。

プロレスラーのキラー・カーンは一時期、辮髪を結っていた。ただしギミック上カーンはモンゴル・スタイルであって、満州族の頭髪とは矛盾があった。

画像

注釈

  1. ^ 夫馬進「朝鮮燕行使と朝鮮通信使」名古屋大学出版会、2015年、ISBN 978-4815808006、p458。
  2. ^ 容應萸、「19世紀後半のニューヘイブンにおける日米中異文化接触」 『アジア研究』 2016年 62巻 2号 p.37-60, doi:10.11479/asianstudies.62.2_37
  3. ^ 愛新覚羅ウルヒチュン 「最後の公爵 愛新覚羅恒煦―激動の中国百年を生きる」 朝日新聞社〈朝日選書〉、1996年、ISBN 978-4022596611

関連項目