有村雄助
時代 | 江戸時代末期(幕末) |
---|---|
生誕 | 天保6年(1835年) |
死没 | 万延元年3月24日(1860年4月14日) |
別名 | 諱:兼武 |
官位 | 贈従四位 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 薩摩藩 |
父母 | 父:有村兼善、母:連寿尼(森元高見の娘) |
兄弟 | 俊斎、雄助、次左衛門 |
有村 雄助(ありむら ゆうすけ)は、幕末の薩摩藩士、尊攘派志士。諱は兼武。
兄に後の貴族院議員・海江田信義(有村俊斎)、弟に有村次左衛門がいる。
生涯
薩摩藩士・有村兼善の三男。母は連寿尼(森元高見の娘)。安政5年(1858年)、次兄の次左衛門とともに脱藩して江戸で尊攘活動を行い、水戸藩士高橋多一郎らの志士と交流を深める。安政6年(1859年)、安政の大獄が起きるとそれに憤慨し、その実行者である大老井伊直弼の暗殺と京都・大坂での挙兵を計画する。
翌安政7年3月3日(1860年3月24日)の朝、桜田門外の変で井伊が次左衛門や水戸浪士らに暗殺されると、それに呼応して水戸藩士金子孫二郎、佐藤鉄三郎とともに京都に向かう。しかし、幕府によって藩士が捕らえられることを恐れた薩摩藩では、道中の伊勢四日市で有村らを捕縛し、伏見の薩摩藩邸に送った。当時の伏見奉行は薩摩藩が任ぜられていたが、金子、佐藤を庇いきれず幕府の手に渡されて江戸に護送され、雄助は薩摩に護送された。万延元年3月24日(1860年4月14日)、幕府の探索が鹿児島に迫ると、藩命によって自刃させられた。介錯は刎頚の友の奈良原喜八郎(のちの繁)であった。享年26。
脚注
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.16