マラニー (DD-528)
艦歴 | |
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発注 | |
起工 | 1942年1月15日 |
進水 | 1942年10月10日 |
就役 | 1943年4月23日 |
その後 | 1971年10月6日、中華民国に移籍 |
性能諸元 | |
排水量 | 2,050トン |
全長 | 376 ft 6 in (114.7 m) |
全幅 | 39 ft 8 in (12.1 m) |
吃水 | 17 ft 9 in (5.4 m) |
機関 | 2軸推進、60,000 shp (45 MW) |
最大速 | 35ノット (65 km/h) |
航続距離 | 6,500海里 (12,000 km) 15ノット(28km/h)時 |
乗員 | 336名 |
兵装 | 38口径5インチ砲5門 40mm対空砲10門 20mm対空砲7門 21インチ魚雷発射管10門 爆雷軌条2軌、爆雷投射機6基 |
マラニー (USS Mullany, DD-528) は、アメリカ海軍の駆逐艦。フレッチャー級駆逐艦の1隻。
艦名はジェームズ・ロバート・マディソン・マラニー少将にちなむ。その名を持つ艦としては2隻目。
艦歴
第二次世界大戦
元々はビーティ(USS Beatty)となる予定であったが、1941年5月28日にマラニーへと変更となった。1942年1月15日にカリフォルニア州サンフランシスコのベスレヘム造船にて起工、1942年10月10日に進水、1943年4月23日にバロン・J・マラニー指揮下にて就役した。
サンディエゴ沖でのシェイクダウンと訓練、及びアリューシャン列島での護衛任務の後、マラニーは1943年12月に南西太平洋の第7艦隊に加わった。 1944年3月2日から4日にかけて、アドミラルティ諸島のゼーアドラー湾の北東に位置する島であるロスネグロス島に上陸する際、ゼーアドラー湾からの移動を支援する掃海艇を護衛した。マラニーは日本軍の砲撃を引き付け、5インチ砲による砲撃で港の防御を沈黙させ、掃海艇の作戦行動を支援した。
レイテ沖海戦では第7艦隊の旗艦ワサッチ(AGC-9)を護衛し、その後オーバーホールのためサンフランシスコへ向かった。1945年1月にハワイ近郊で訓練を行った後、硫黄島侵攻のために第54機動部隊に加わり、輸送艦を護衛した。
1945年4月6日、沖縄戦における対潜水艦の哨戒任務にて、17時45分に神風特攻隊を迎撃した。数秒後、戦闘機は多数の被弾により発煙しながらマラニーに迫り、船体後部デッキに突入、火災が発生した。その後の20分間にさらに3機の敵機が被災したマラニーを攻撃したが、対空砲火により2機を撃墜、もう1機を追い払った。
1時間後、艦長は後部弾薬庫の隔壁の過熱により、爆発が差し迫っているとの報告を受けた。将校の多くは弾薬の誘爆による悲惨な結果を見ており、18時29分に艦長は船を放棄するように命令した。USSゲラルディ(DMS-30)及びUSSエグゼキュート(AM-232)は、マラニーの乗組員の救助にあたり、その後USSパーディ(DD-734)が加わり消火を行った。弾薬庫隔壁及び燃料タンクへの放水により誘爆を免れたため、マラニー艦長は23:00に基幹要員を乗艦させた。火が消えた後、エグゼキュートは曳航を試みたが、航行速度を上げた際にケーブルが断線したため中止された。その後乗組員により1つの機関の始動に成功し、真珠湾を経由してサンフランシスコに向かい、5月29日に到着した。マラニーは沈没を免れたが、乗組員の21名が死亡、9名が行方不明となり、36名が負傷した。
完全に修理されたマラニーは9月25日に出航し、サウスカロライナ州チャールストンの予備艦隊に加わり、1946年2月14日に退役するまでパナマ運河と大西洋艦隊の任務に就いた。
戦後
1951年3月8日に再就役したマラニーは大西洋艦隊に復帰し、1954年1月までに第6艦隊の平和維持任務に参加するために地中海に3度配備された。マラニーは太平洋艦隊での任務のために第21駆逐艦戦隊に再配備され、その後10年間に渡り第7艦隊と共に西太平洋にて8度の任務にあたり、アジアの自由を保護するために哨戒及び訓練活動に参加した。
ベトナム戦争
マラニーはアジア沿岸への9度目の航行にて戦闘に復帰し、1965年にベトナム沖での航空攻撃作戦において空母インディペンデンス (CV-62)を護衛し、ダナンで港湾防衛を務めた。1965年7月6日、マラニーの5インチ砲は沖縄以来初めて発砲された。クイニョンに上陸した米国第7海兵連隊を支援していた際にはベトナム沖でソビエト連邦の工作船に遭遇、漁船になりすました「イワン」を数日間尾行し、重要な情報を収集した後、尾行任務を艦隊のタグボートに引き継いだ。
翌年、ベトナムの海岸に戻り、1966年11月20日から30日にかけて5インチ砲で28隻の敵船を撃沈、26隻を損傷させた。更に1967年3月までUSSタイコンデロガ(CVA-14)を護衛した。ロングビーチ海軍造船所でのオーバーホールの後、マラニーは1967年をカリフォルニア沖で再訓練と現地での作戦に費やした。
1968年2月、再び西太平洋に配備され、1968年7月9日にベトナム海域を離れた。マラニーは137日間で地球1周のほぼ2倍にあたる46,468マイルを航行した。25年にわたる艦歴において、マラニーは40回以上地球を一周した計算となる。ニュージーランドのオークランドを訪れた後、9月にサンディエゴに帰投した。その後2年間、ロングビーチ海軍造船所を拠点とし、予備の練習船として西海岸を南北に航行した。1971年の時点において、マラニーは現役で最古の駆逐艦となった。その後1971年10月6日に海軍船籍から除籍され、中華民国に売却された。
従軍星章
マラニーは第二次世界大戦中の功績により7個の従軍星章を受章した。
チンヤン
1971年10月6日に中華民国海軍に移送され、船は慶陽(チンヤン)と改名された。2001年11月1日に人工魚礁として沈没した。
脚注
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。 記事はここで閲覧できます。