松崎万長
松崎 万長(まつがさき つむなが、安政5年10月13日(1858年11月18日) – 大正10年(1921年)2月3日)は、明治時代に活躍した日本の建築家、華族(男爵)。ドイツスタイルの建築を得意とした。松ヶ崎 萬長とも表記される。
経歴
安政5年(1858年)10月13日、堂上公家・堤哲長の次男として京都・二階町に生まれる。甘露寺勝長の養子。幼名は延麿(別名・高丸)。弟に亀井茲明がいる。
孝明天皇の御児だったため、慶応3年(1867年)10月、その遺詔により堂上に列せられ(孝明天皇の落胤だったという噂もある)。翌11月に松崎家を創設した。明治2年(1869年)には30石3人扶持を賜った。
明治4年(1871年)12月、岩倉使節団に加わり、ドイツ(当時のプロイセン)に渡り、明治16年(1883年)から2年間、ヘルマン・エンデのもと、ベルリン工科大学で建築学を学んだ。明治17年(1884年)7月、男爵を賜り、同年12月、帰国。
明治18年(1885年)4月に皇居造営事務局御用掛、同19年(1886年)に内閣臨時建築局工事部長として官庁集中計画に携わり、留学の経験を生かし、ドイツから建築家のエンデとヴィルヘルム・ベックマンを招聘するとともに、職人たちのドイツ留学を手助けした。
明治19年(1886年)3月15日、辰野金吾、河合浩蔵、妻木頼黄とともに造家学会(のちの日本建築学会)の創立委員となり、設立に貢献した。なお、造家学会創立委員会は、同年3月20日に松崎邸で開催された。
明治26年(1893年)3月、裁判所から家資分散の宣告を受け、同29年(1896年)10月22日、爵位を返上した[1]。爵位の返上は経済的な理由と考えられる。
明治34年(1901年)5月に仙台に転居し、仙台の七十七銀行本店の設計などにもあたった。
明治40年(1907年)、台湾総督府鉄道局に勤務するため、日本を離れ基隆駅や新竹駅などの建築にあたった。大正10年(1921年)2月3日、東京府で死去。
二男三女の子女あり。
系譜
- 父:堤哲長(1828-1869)
- 母:不詳
- 養父:甘露寺勝長
- 妻:不詳
- 子女は2男3女
作品
名称 | 年 | 所在地 | 国 | 状態 | 備考 |
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柴田承桂邸 | 1886年 | 東京市・市ヶ谷加賀町 | 日本 | 現存せず | |
青木周蔵邸 | 1886年 | 東京市・麹町区上二番町15 | 日本 | 現存せず | |
同上付設舞踊場 | 1886年 | 東京市・麹町区上二番町15 | 日本 | 現存せず | |
桂太郎(陸軍次官)邸 | 1887年 | 東京市・青山北町 | 日本 | 現存せず | 設計 |
旧青木家那須別邸 | 1888年 | 那須塩原市 | 栃木都県日本 | 重要文化財 | 青木周蔵の別荘 |
精進湖ホテル | 1895年 | 現・山梨県西八代郡 | 日本 | 現存せず | 建築主:イギリス人H・S・ホイットウォーズ |
七十七銀行本店 | 1903年 | 宮城県仙台市 | 日本 | 現存せず | |
台北西門市場 | 1908年 | 台北市 | 台湾 | 現・西門紅楼 | |
台湾鉄道ホテル | 1908年 | 台北市 | 台湾 | 現存せず | |
基隆駅 | 1912年 | 基隆市 | 台湾 | 現存せず | |
新竹駅 | 1913年 | 新竹市東区 | 台湾 | ||
大稻埕公學校 | 1917年 | 台北市 | 台湾 | 現存せず | |
台中公会堂 | 1918年 | 台中市 | 台湾 | 現存せず |
脚注
- ^ 『官報』第3997号、明治29年10月23日。
参考文献
- 日本建築学会『日本建築学会80年略史(1886-1966)』1966年。
- 岡田義治・柴田智男(共同研究)『栃木の建築文化・青木周蔵那須別邸ー青木周蔵と松ヶ崎萬長ー』日本建築学会関東支部栃木支所、1995年。
- 岡田義治・初田亨『松ヶ崎萬長の経歴と作品』日本建築学会大会学術講演梗概集、1996年。
- 岡田義治・磯忍『青木農場と青木周蔵那須別邸』(随想舎)、2001年。
外部リンク
- 松崎万長設計の七十七銀行旧本店の画像を掲載
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 松崎家初代 1884年 - 1896年 |
次代 爵位返上 |