渋沢宗助
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 寛政6年12月2日(1795年1月22日) |
死没 | 明治3年12月2日(1871年1月22日) |
別名 | 徳厚(諱)、誠室 |
藩 | 岡部藩 |
父母 | 渋沢宗助 (2代目) |
兄弟 | 宗助、文左衛門、市郎右衛門、男子、新島氏妻、やゑ(尾高勝五郎の妻)、こま(福田彦四郎の妻)、高橋氏妻、須永惣次郎妻、 |
子 | 渋沢宗助 (4代目)、渋沢宗助 (5代目)、さく(諸井恒平の母) |
渋沢 宗助(しぶさわ そうすけ)は、江戸時代後期の武蔵国榛沢郡血洗島村の名主、養蚕家。誠室と号した。渋沢栄一の伯父、澁澤龍彦の高祖父にあたる。
略歴
[編集]渋沢家は血洗島村の名主の家柄で、村内の4分の1を占める大姓だった。織田完之によれば甲斐源氏の末裔で、室町時代には関東管領上杉氏に仕え、天正年間より同地に住んだ一族という。宗助の家は「東の家」と呼ばれる分家筋にあたり、渋沢宗助政徳の長男として生まれた。本家筋の「中の家」に男子がなかったため、次弟の元助が入婿して市郎右衛門美雅と称しており、その子が渋沢栄一である。また長弟文左衛門の子が渋沢成一郎、姉妹の子に尾高惇忠・長七郎・(渋沢)平九郎兄弟、須永伝蔵(於菟之輔)・渋沢市郎(2代目)兄弟などがいる。中の家は当時家運衰退しており、経済的には東の家が渋沢一族で最も裕福だった。後年、中の家は弟市郎右衛門の尽力により復興したが、それでも東の家が随一だったという。
書を中村仏庵に学び、柳公権・顔真卿を能くしたという。上野国・信濃国などの養蚕地から技術を学んで養蚕技術の改良を考案し、安政2年(1855年)「養蚕手引抄」を出版した。また寺子屋や剣術道場の練武館を作って子弟の教育にも尽力した。
晩年となる明治維新後、市郎右衛門・栄一親子と協力して横浜に商店を開き、また古河市兵衛に接近して蚕卵紙の輸出に携わった。
逸話
[編集]- 甥の渋沢栄一は当初栄治郎と称していたが、宗助によって栄一と名を改めている。後に栄一が士分に列すると名乗り(通称)を武士風(篤太夫、篤太郎)に改めているが、栄一の名は諱(源栄一、みなもと の ひでかず)として引き続き使用し、維新後も本名とした。栄一は談話として、宗助から書を習ったことを回想している。
- 妻は熱心な信仰家だったらしく、加持祈祷に傾倒していた時期があった。姪が病気になった際、遠加美講という修験者を呼び寄せて加持祈祷をさせようとしたが、姪の弟の渋沢栄一が修験者を論破してしまったため、以後は加持祈祷に執心しなくなったという。