エレナ・ムヒナ
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選手情報 | |||||||||||||||||||||
フルネーム | Елена Вячеславовна Мухина(Elena Vyacheslavovna Mukhina) | ||||||||||||||||||||
国籍 | ソビエト連邦 | ||||||||||||||||||||
生年月日 | 1960年6月1日 | ||||||||||||||||||||
生誕地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ | ||||||||||||||||||||
没年月日 | 46歳没 | ||||||||||||||||||||
死没地 | ロシア | ||||||||||||||||||||
身長 | 153cm(1978年当時)[1] | ||||||||||||||||||||
体重 | 42kg(1978年当時)[1] | ||||||||||||||||||||
所属 | CSKAモスクワ | ||||||||||||||||||||
引退 | 1980年 | ||||||||||||||||||||
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エレナ・ムヒナ(Елена Мухина, Elena Mukhina、1960年6月1日 - 2006年12月22日)は、ソビエト連邦の元女子体操競技選手。
生涯
父とは離別、さらに5歳で母とは死別(火災による)し、祖母に育てられた。
1976年、ソ連国内のジュニア大会で優勝するが、同年の1976年モントリオールオリンピックの代表選考には間に合わなかった。
1977年、ソ連国内だけでなく、欧州選手権でも活躍。欧州選手権では、種目別で3つの金メダル、個人総合で銀メダルを獲得。翌1978年、初出場した世界選手権ストラスブール大会において個人総合優勝[2]。なお、表彰台はソ連勢が独占した。他にも団体総合・種目別ゆかでの2つの金メダル、種目別での2つの銀メダルを獲得した。低年齢化・アクロバット化が進んでいた当時の女子体操界では、やや遅咲きの18歳だった。
1980年には怪我も重なり、春のソ連選手権では9位にとどまった[2]。そのため練習に打ち込んだ結果、直前に負傷。同年7月8日、オリンピックのソビエト連邦選手団筋から、段違い平行棒の練習中に負傷し、1980年モスクワオリンピック出場が絶望になったと発表がされた[3]。
当初、ソ連側はムヒナが五輪を欠場する旨のみ発表し詳細を伏せたため、一時は死亡説[4][5]が流れたり、事故の原因も様々な説が広がった。また、同年11月には、ムヒナが手術の結果「座ることができ手を動かす機能も回復しつつある」とし、今後もリハビリを続け歩行機能回復を目指すと発表した[6]。
しかし実際には、1980年7月3日、床運動でトーマス(w:Thomas salto)を練習中にあごから落下[7]。脊髄損傷という重傷で、その結果、四肢に身体障害を負っていた。その後、トーマスは女子の禁止技となった。
彼女には、ソ連政府や国際オリンピック委員会(IOC)から勲章が与えられた。1984年に大学を卒業した。
2006年に心不全で死去。モスクワのトロエクロフスコエ墓地に埋葬されている。
脚注
- ^ a b 1978年10月30日 読売新聞「女王ムヒナ誕生 女子個人総合、ソ連メダル独占」
- ^ a b ウルトラC教総の悲運 練習で重傷、20歳のムヒナ選手
- ^ 体操のムヒナ負傷 五輪出場は絶望 朝日新聞 1980年7月10日朝刊17ページ
- ^ 1980年7月 読売新聞「モスクワ便り ムヒナ死亡説流れる」
- ^ 鉄の内情知る手だて 地元民も取材センター活用? 読売新聞 1980年8月1日朝刊18ページ
- ^ 1980年11月30日 朝日新聞「重傷の元女王 手の機能戻る」
- ^ 2006年12月24日 International Gymnast Magazine "Yelena Mukhina Dies"