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日本電気鉄道

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日本電気鉄道(にほんでんきてつどう)とは、明治末期から昭和初期にかけて計画された、東京 - 大阪間を電車で結ぶ新線を実現しようという、幻の私鉄である。

1907年に当時安田財閥の総帥だった安田善次郎が発起人となり、雨宮敬次郎らと共同で東京 - 大阪間を6時間で結ぶ標準軌の電車路線を敷設するものとして免許申請を行ったのが最初といわれる。しかし「私鉄は一地方の交通を目的とすべき」との逓信省の考えや、当時軍事輸送の強化を目的に幹線を中心とした鉄道の国有化を進めていた政府の方針に反することから、この申請はあっさりと却下される[1][2]。予定では、東京(渋谷) - 大阪(野田、現在の京橋駅付近)間を、松田静岡名古屋亀山に途中駅を設置し、当時としては速達の最高80 km/h で走る電車によって、10時間を切ることを目標にしたという。

ところが1920年代に入ると、当時鉄道省が運営していた東海道線輸送能力蒸気機関車ベースでの輸送のため逼迫しつつあったことから、この計画が再浮上する。そこで当時東武鉄道の経営に参画していた根津嘉一郎らは鉄道省に対し免許申請を行い、1924年大正13年)には当時の清浦内閣によって免許の可能性が検討されるところまで話が進んだ。

しかし、名古屋以西のルートが京都に寄らず木津川沿いに大阪に直進するルートだったことから、京都方面の財界の大きな反対を受けたことや、当時地方鉄道法で私鉄の軌間が事実上狭軌に制限されていたことに反する申請だったことなど、複数の要因が重なり、清浦内閣退陣後は事実上この計画は棚上げ状態となる。1928年(昭和3年)に根津らは再び免許申請[3]を行うが結果は不調に終わり、この申請を最後に同計画は幻のものとなった。

ただしこの計画は、後の弾丸列車計画や東海道新幹線計画の基礎となったとも言われており、その意味では現在の新幹線はこの計画があってこそ生まれたと言うこともできるだろう。

東海道を外れた区間に転じると、1938年(昭和13年)には関西急行鉄道の開通で、途中乗り換えを伴うものの、大阪上本町から関急名古屋間が民鉄路線で繋がった(現在の近鉄大阪線名古屋線)。

件別

  • 「日本電気鉄道敷設願却下ノ件」『 第十門・地方鉄道及軌道・六、敷設請願却下・巻二十八・昭和二年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)

脚注

  1. ^ 日本電鉄不認可 明治40年3月4日東京朝日新聞『新聞集成明治編年史. 第十三卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ 『鉄道局年報. 明治39年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 1928年3月24日付け大阪朝日新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)

関連項目