富塚陽一
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富塚陽一 とみづか よういち | |
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生年月日 | 1931年4月16日 |
出生地 | 山形県鶴岡市 |
没年月日 | 2018年6月18日(87歳没) |
出身校 | 東北大学経済学部 |
前職 | 地方公務員(山形県) |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 旭日中綬章 |
公選初代 鶴岡市長 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 2005年10月24日 - 2009年10月23日 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1991年12月 - 2005年 |
富塚 陽一(とみづか よういち、1931年(昭和6年)4月16日[1] - 2018年(平成30年)6月18日)は、日本の政治家。初代鶴岡市長、旧鶴岡市12代市長。2011年旭日中綬章受章。
来歴・人物
鶴岡市出身。東北大学経済学部を卒業後、山形県庁に入庁。企画調整部長等を歴任[2]。
1991年、旧鶴岡市の市長選で初当選。以後5期18年にわたって市長を務めた。市長在任中には、学術研究機関の整備による地域振興を政策理念の柱にとし、慶應義塾大学先端生命科学研究所の招致などに尽力した[3]。 「官僚的な人物だった」と一部では評価されている[4]。
2018年6月18日、肺炎のため鶴岡市内の病院で死去。87歳没[6]。叙正五位[7]。
略歴
- 1931年(昭和6年)4月16日 - 出生。
- 1950年(昭和25年)3月 - 山形県立鶴岡第一高等学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)卒業。
- 1954年(昭和29年) 東北大学経済学部卒業後、山形県職員となる。
- 以降、商工労働部商工課長、企画調整部長、生活福祉部長、総務部長等を歴任。
- 1990年(平成2年)4月 - 同職を退職する。
- 1991年(平成3年)12月 - (旧)鶴岡市12代市長に就任。
- 2002年(平成14年)7月10日 - 「庄内南部地区合併検討協議会」会長に就任。
- 2005年(平成17年)10月24日 - 初代鶴岡市長に就任。
- 2006年(平成18年)6月23日 - 「鶴岡地区合併協議会」会長に就任。
- 2008年(平成20年)12月22日 - 「市町村長の会」会長に就任。
- 2009年(平成21年)
- 6月 - 定例市議会で、次期市長選挙に出馬しない事を正式に表明する。
- 10月23日 - 任期満了となり退任。
- 2018年(平成30年)6月18日 - 死去。
著書
- 『鶴岡市長日記』東北出版企画、2006年。ISBN 4-88761-031-9
共著
参考資料
- 東北経済産業局 『提言東北21』 2005年。
脚注
- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、53頁。
- ^ “明るい市政を 富塚鶴岡市長 退任あいさつで“訓示””. 荘内日報. (2009年10月23日) 2014年11月26日閲覧。
- ^ 季刊 政策・経営研究 (2013年8月). “地方から世界水準のイノベーション〜慶應大先端生命科学研究所とスパイバー社の挑戦〜 鶴岡市企画部政策推進課長 高橋健彦”. 三菱UFJリサーチ&コンサルティング. 2014年11月26日閲覧。
- ^ “榎本政規市長が「1万人車座ミーティング」”. 民報藤島. (2009年11月15日) 2014年12月20日閲覧。
- ^ 『官報』号外第129号、平成23年6月20日
- ^ “元鶴岡市長の富塚陽一氏が死去”. NHK NEWS WEB 山形 NEWS WEB. (2018年6月19日) 2018年6月20日閲覧。
- ^ 「叙位叙勲」『読売新聞』2018年7月18日朝刊
公職 | ||
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先代 新設合併 |
鶴岡市長 公選初代:2005年 - 2009年 |
次代 榎本政規 |
先代 斎藤第六 |
旧制鶴岡市長 公選第12-15代:1991年 - 2005年 |
次代 新設合併 |