市橋時蔵
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名前 | ||||||
カタカナ | イチハシ トキゾウ | |||||
ラテン文字 | ICHIHASHI Tokizo | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 | 1909年6月9日 | |||||
出身地 | 兵庫県 | |||||
没年月日 | 没年不詳 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
19xx-1927 | 兵庫県立第一神戸中学校 | |||||
慶應義塾大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1931 | 慶應BRB | |||||
代表歴 | ||||||
1930 | 日本 | 2 | (1) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
市橋 時蔵(いちはし ときぞう、1909年6月9日 - 没年不詳)は、兵庫県出身のサッカー選手、サッカー審判員。
経歴
兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)の蹴球部に所属し、1927年に神戸一中を卒業[1]。
慶應義塾大学に入学後はソッカー部に入部。在学中の1930年5月に第9回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、フィリピン代表戦で初出場し、得点も決めた[2]。1931年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に慶應BRBのメンバーとして出場して準優勝に貢献した。
大学卒業後の1936年3月、大日本蹴球協会の理事会でベルリン五輪の日本代表候補に選出された(最終メンバーからは落選、ベルリンの奇跡を参照)。
1939年から1956年まで兵庫県サッカー協会の常任理事を務めた[3]。
1948年4月29日、明治神宮野球場で開催された東西対抗サッカー試合(全関東vs全関西)の主審を務めた人物でもあった[4]。
代表歴
- 国際Aマッチ 2試合 1得点(1930)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1930 | 2 | 1 |
通算 | 2 | 1 |
出典
- ^ ユーハイム体育・スポーツ振興会『神戸一中蹴球史 復刻版』2011年3月。 NCID BB05662830。
- ^ “第9回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2015年11月20日閲覧。
- ^ 『兵庫サッカーの歩み―兵庫県サッカー協会70年史』兵庫県サッカー協会、1997年12月、7頁。ISBN 4303990205。
- ^ 東西対抗を語る 堀江忠男 (PDF) 日本蹴球協会機関誌『SOCCER』第1号(29頁) 1948年8月
関連項目
外部リンク
- 市橋時蔵 - National-Football-Teams.com
- 日本サッカーアーカイブス(1930年)