源顕雅
表示
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 承保元年(1074年) |
死没 | 保延2年10月13日(1136年11月8日) |
別名 | 楊梅大納言、正字:顯雅 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 村上源氏 |
父母 | 父:源顕房、母:顕雅母(藤原伊綱の娘) |
兄弟 | 賢子、雅実、顕仲、雅俊、国信、師子、相覚、顕雅、定海、隆覚、信雅、覚樹、雅兼、清覚、雅光、覚雅、御匣殿、季房、雅隆、顕覚、藤原顕隆室、藤原師実室、別当殿、堀河院承香殿 |
妻 | 藤原為隆の娘、章尋の娘、藤原顕季の娘 |
子 | 雅長、信雅、弁雅、雅寛、相顕、顕智、景雅、難波頼経正室、女子 |
源 顕雅(みなもと の あきまさ)は、平安時代後期の公卿。村上源氏、右大臣・源顕房の六男。官位は正二位・権大納言。楊梅大納言と号す。
経歴
応徳2年(1085年)に侍従に任じられ、応徳4年(1087年)従五位上に叙される。寛治元年(1087年)正五位下・左近衛少将に叙任され、近江権守を兼ねた。寛治2年(1088年)五位蔵人に補され、従四位下に陞叙。右少将を経て、寛治3年(1089年)に従四位上、寛治5年(1091年)に正四位下に進み、備中権介を兼任した。
美作介、右近衛中将を歴任し、康和4年(1102年)蔵人頭、続いて参議に任ぜられ公卿に列す。同年中に院別当に補される。さらに従三位に叙され、康和5年(1103年)播磨権守、嘉承3年(1108年)に備中権守、天永4年(1113年)に播磨権守と地方官を兼帯。この間に正三位に進む。その後、大宮権大夫を経て、備中権守・備後権守と再度地方官に転じた。
保安3年(1122年)権中納言に任ぜられ、同年中納言に進む。大治5年(1130年)には石清水八幡宮に派遣され奉幣を行う。長承元年12月(1133年2月)には権大納言に昇る。長承2年(1133年)には約20年振りに叙位を受け、従二位に昇る。さらに長承4年(1135年)正二位に叙された。
保延2年(1136年)病により出家。9日後に薨去。享年63。なお、『公卿補任』に『尊卑分脈』では没日は14日としているが、『中右記』によると出家と同日の10月4日に薨去した、と記されてある。詩、管弦の才はなかったという。
官歴
- 応徳2年(1085年)11月20日:侍従に任ず。
- 応徳4年(1087年)正月5日:従五位上に叙す。
- 寛治元年(1087年)10月:近江権守を兼ぬ。11月18日:正五位下に叙す(大嘗會。近江権守)。12月13日(1088年1月9日):左近衛少将に任ず(元侍従兼近江権守)。
- 寛治2年(1088年)2月17日:五位蔵人に補す。6月5日:従四位下に叙す(少将如元。無品令子内親王去応徳2年未給。臨時除目次)。12月(1089年1月):右近衛少将に転ず(元左少将)。
- 寛治3年(1089年)正月11日:従四位上に叙す(天皇行幸一院無品内親王別當賞)。
- 寛治5年(1091年)正月13日:正四位下に叙す。正月28日:備中権介を兼ぬ(少将労)。
- 嘉保元年(1094年)9月5日:父顕房薨ず。
- 嘉保3年(1096年)正月24日:美作介を兼ぬ(少将労)。
- 康和元年12月14日(1100年1月26日):右近衛中将に任ず。
- 康和4年(1102年)正月23日:蔵人頭に補す。6月:参議に任ず(右中将如元)。7月20日:昇殿を聴し院別当に補す。[1]。7月21日:従三位に叙す(尊勝寺供養賞。院別当)。
- 康和5年(1103年)2月20日:播磨権守を兼ぬ。
- 嘉承3年(1108年)正月13日:備中権守を兼ぬ。
- 天永3年(1112年):正三位に叙すか。
- 天永4年(1113年)正月28日:播磨権守を兼ぬ。
- 永久3年(1115年)正月29日:大宮権大夫を兼ぬ。
- 永久6年(1118年)正月11日:備中権守を兼ぬ。正月18日:備後権守を兼ぬ。
- 元永2年(1119年)10月16日:娘死去[2]。
- 保安元年(1120年)12月:大宮権大夫を止む。
- 保安3年(1122年)正月23日:権中納言に任ず。12月17日(1123年1月16日):中納言に転ず。
- 大治5年(1130年)8月6日:石清水八幡宮に奉幣する[3]
- 長承元年12月25日(1133年2月1日):権大納言に任ず。
- 長承2年(1133年)正月5日:従二位に叙す(行幸石清水賀茂行事賞)。
- 長承4年(1135年)正月5日:正二位に叙す(去大治五年行幸日吉社行事賞)。
- 保延2年(1136年)10月4日:病に依りて出家。10月13日:薨ず。享年63。