コナン・ベディエ
コナン・ベディエ Konan Bédié | |
2017年
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任期 | 1993年12月7日 – 1999年12月24日 |
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出生 | 1934年5月5日(90歳) フランス領西アフリカ、ンジ=コモエ州 ダウクロ県 Dadiékro |
政党 | コートジボワール民主党 |
配偶者 | アンリエット・コインザン・ボモ |
アンリ・コナン・ベディエ(フランス語: Henri Konan Bédié, 1934年5月5日 - )は、コートジボワールの第2代大統領(在任:1993年 - 1999年)。
経歴
前任の「建国の父」フェリックス・ウフェ=ボワニが在任中に死去したため、憲法上の規定に従い国民会議(国会)議長から暫定大統領に就任。しかし、ウフェボワニの築き上げた体制を維持する力はベディエには無く、経済は停滞し、政府の統治能力及び求心力は減退していった。
このため1995年の大統領選挙は不利と見られていたが、有力対抗馬のアラサン・ワタラがブルキナファソ系であることに目をつけ、国籍法改正によりコートジボワール生まれの者だけが大統領選に出馬できるようにしたため、野党勢力のボイコットの中大統領選に勝利し、正式に第2代大統領となる。
また、ワタラ排除や経済社会状況打開のため、イヴォワリテ(コートジボワール人性)政策を採ってナショナリズムを煽った。ブルキナファソやガーナ、マリなどから来た移民の開拓した農地を認めず、南部の在来集団に有利な政策をとった。また、宗教的に差異のある北部(北部はイスラム教、南部はキリスト教)も、イヴォワリテ政策により冷遇されることとなった。
しかし、コートジボワールにおける移民の割合は26%にも達しており、コートジボワール経済の要であるカカオ生産を担っていたのは彼らであったため、この政策は加速度的に混乱を深めさせていくだけだった。さらに、北部はこの政策によって南部と対立を深め、後の内戦の重要な要因となった。
1999年12月24日、ロベール・ゲイ元参謀長らがクーデターを強行し、ベディエはフランスに亡命。しかしゲイが選挙に失敗し逃亡すると2001年に帰国し、2002年4月にコートジボワール民主党の党首に再選された。
2010年コートジボワール大統領選挙にも出馬したが、第一回投票にてローラン・バグボ、アラサン・ワタラに次ぐ第3位の得票数で敗退した。
2021年11月、PDCIシンポジウムの終わりに、彼の政党であるアンリコナンベディエは和解を担当する特別顧問を任命することを約束しました。彼の選択は、元高原市長で党の副大統領であるノエル・アコッシ・ベンジョに委ねられた。
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