コンテンツにスキップ

コリウール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2021年8月12日 (木) 17:16; Archaeodontosaurus (会話 | 投稿記録) による版 (コリウールを描いた絵画)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
Collioure


地図
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) オクシタニー地域圏
(département) ピレネー=オリアンタル県
(arrondissement) セレ郡
小郡 (canton) コート=ヴェルメイユ小郡
INSEEコード 66053
郵便番号 66190
市長任期 ミシェル・モリ
2008年 - 2014年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes de la Côte Vermeille
人口動態
人口 2,937人
2008年
人口密度 226人/km2
住民の呼称 Colliourencs, Colliourencques
地理
座標 北緯42度31分36秒 東経3度04分53秒 / 北緯42.5266666667度 東経3.08138888889度 / 42.5266666667; 3.08138888889座標: 北緯42度31分36秒 東経3度04分53秒 / 北緯42.5266666667度 東経3.08138888889度 / 42.5266666667; 3.08138888889
標高 平均:m
最低:0m
最高:655m
面積 13.02km2
Collioureの位置(フランス内)
Collioure
Collioure
公式サイト collioure.net
テンプレートを表示

コリウールフランス語:Collioureカタルーニャ語:Cotlliure)は、フランスオクシタニー地域圏ピレネーゾリアンタル県コミューン

地理

[編集]

スペイン国境から20kmほどの距離にある、地中海に面した町である。かつては、アンチョビ漁で知られる漁村だった。現在は観光業が盛んである。

歴史

[編集]
コリウール城

先史時代より人が定住していた。城が建設されたのが673年である。西ゴート王国時代、コリウールは戦略的意義と商業目的を持つ地だった。

城はルシヨン伯のものだったが、子孫が絶えるとアラゴン王が継承し、1343年まではマヨルカ王が領有した。マヨルカ王国時代の1242年から1280年、テンプル騎士団の資金で城が再建され、王城となった。コリウールはルシヨン一の港となった。アラゴン王国時代に貿易が栄えた。織物、油やワイン、香辛料、東方伝来の織物や物産が取引された。

1475年から1481年まで、フランス王ルイ11世がコリウールを占領し、防衛を強化して地名をサン・ミシェル(Saint-Michel)と変更した。シャルル8世はルシヨンをフェルナンド2世へ返還した。カルロス1世時代、コリウールの防衛が整えられた。

1643年、ルイ14世軍がコリウールを占領、1659年のピレネー条約をもって正式にフランスへ併合した。駐屯地の町をつくりたいと思っていたヴォーバンに戦略的役割を再確認され、城の拡張のため旧市街が壊され、サンテルムやミラドールといった新しい砦が築かれた。近郊のポール=ヴァンドルへの強制退去に脅かされた住民たちは、現在の場所にコリウールの町を再建した。

1793年、スペイン軍がコリウールを占領したが、1794年にデュゴミエ指揮下のフランス軍が奪還した。

1822年、コリウールの一部とバニュルス=シュル=メールの一部が合併し、新しくポール=ヴァンドルができた。19世紀の間、コリウールはアンチョビ漁とワイン生産で経済ブームの中にあった。しかし20世紀初頭から流れは下火となった。代わってポール=ヴァンドルが成長していった。

1939年、スペイン内戦で敗れた数十万人の共和国軍派がフランスへ逃れた。スペイン難民は収容所に集められ、特に危険視された人々(一部のアナーキストや共産主義者)はコリウール城の特別な収容所に入れられた。1000人近くの人々が刑務所のような収容所に入れられ、人間以下に扱われた。1939年12月にコリウール収容所が閉じられると、彼らはアリエージュ県ル・ヴェルネ収容所へ移送された[1]

20世紀初頭、コリウールは観光発展に貢献することとなった大きな転換を経験した。1905年5月、秋のサロンでフォービズムと称される前、アンリ・マティスアンドレ・ドランを伴いコリウールを訪れたのである。マティスはサントロペを発ち、ポール・シニャック点描法と決別した。マティスは若いドランとコリウールで絵を描いた。これは友情の始まりと実りあるコラボレーションとなった。2人は1905年夏に『チューブから出たそのままの色』を用いて猛烈に制作に没頭した。コリウールのあらゆるもの、港、尖塔、屋根や通りの角が彼らの創作意欲を刺激した。

他にアルベール・マルケフアン・グリスジョルジュ・ブラックパブロ・ピカソラウル・デュフィレオナール・フジタオトン・フリエスがコリウールを訪れた。

みどころ

[編集]
  • ノートルダム・デザンジュ教会 - 17世紀ゴシック様式。三方を海に囲まれた鐘楼を持つ。かつて鐘楼は灯台の役目を持っていた。ヴォーバンによって教会が壊されると、コミューンは峠近くに新しい教会を建設する許可を得た。しかしヴォーバンはより港の海底が深いポール=ヴァンドルを選び、コリウールの開発は中止されてしまった。
  • コリウール城 - ヴァンセンヌ城と並び、中世に宮廷が置かれた古い城。
ノートルダム・デザンジュ教会パノラマ

コリウールを描いた絵画

[編集]

姉妹都市

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ Monica Gruszka, « Collioure, prélude à l’infamie », À contretemps : bulletin de critique bibliographique, octobre 2005, consulté le 23 novembre 2010