高林寺 (奈良市)

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高林寺
所在地 奈良県奈良市井上町32
位置 北緯34度40分29.12秒 東経135度49分48.66秒 / 北緯34.6747556度 東経135.8301833度 / 34.6747556; 135.8301833座標: 北緯34度40分29.12秒 東経135度49分48.66秒 / 北緯34.6747556度 東経135.8301833度 / 34.6747556; 135.8301833
山号 豊成山高坊
宗派 融通念仏宗
本尊 豊成卿
中将姫
中興年 文化年間
中興 寿保尼
法人番号 8150005000130 ウィキデータを編集
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高林寺(こうりんじ)は、奈良県奈良市井上町にある、融通念仏宗寺院尼寺)である[1]檀家を持たないが、多くの信徒の信仰を集める[2]

歴史[編集]

当寺の元は、宝亀年中に藤原魚名の娘が中将姫に仕えとなり、現高御門町の居室を尼寺となし、中将姫の父・豊成塔を守ってきたものである[3][1]

が、治承4年(1180年)に平重衡南都焼討によって焼失し、永く再興されなかった。東大寺三昧堂旧本尊の千手観音像は、昔高林寺本尊であったという[3][2]

天文3年(1534年)に、現在の地に尼室を移し、寺を再興した[2]。この地はもとより、豊成卿の屋敷跡であったとも言われ[2]、豊成卿の廟塔があったという[1]。その際、浄土真言兼学より、融通念仏宗に改宗した[3][2]

奈良茶人連歌師北端宗陳も、この寺の北端に住んでいた[3][2]

文化年間に寿保尼を迎えて、寺運栄え発展していったと言われる[3][2]。寺では寿保尼を中興初代とし、7代寿明尼は本堂・門など寺観の整備に尽力した。現在は中興9代目となる[2]

伽藍など[編集]

本堂[編集]

内陣中央須弥壇に2つの厨子があり、右に豊成卿、左に中将姫の坐像をまつる[2]。脇壇には阿弥陀如来立像・十一面観音立像・銅造の誕生釈迦仏・薬師如来坐像が安置される[2]。左方脇壇には地蔵菩薩立像・弘法大師坐像・明治天皇尊牌などを安置している[2]

豊成・中将姫の石塔婆[編集]

かつて当寺には豊成卿・中将姫の石塔婆があった[4][1]永禄年間、松永久秀多聞山城を築くにあたり、を築くためこの塔石を奪おうとした[4][1]。当寺に居住していた連歌師・廬箏斎心前は、以下のような連歌発句を久秀に送ったので、連歌に理解のある久秀は奪うのを止めたという[4][1]

曳きのこす 花や秋さく 石の竹

この石塔は延宝5年(1677年)鳴川町の徳融寺に移り、心前自筆の短冊のみが当寺に残るという[1]

その他[編集]

本堂前には豊成卿の廟所がある[2]

昭和54年(1979年)に庫裏を改築し、客殿を新築した[2]

寺宝[編集]

十一尊天得如来画像[2][編集]

豊成公・中将姫父子対面の図[編集]

二上山に来迎する阿弥陀三尊・諸菩薩を背景に、父子対面が描かれる[2]

刺繍阿弥陀三尊来迎図[編集]

粗い平絹地に縹色を塗り、雲上の阿弥陀三尊往生者を刺繍したもので、長さ23センチ、幅10.2センチ、室町時代の作[2]。この図はもと山口県岩国市の実相院に伝えられていたが、廃絶後、中将姫ゆかりの当寺に寄進された[2]

その他[編集]

別の刺繍種子阿弥陀三尊図も古くより伝わり、室町時代の作である[2]大通上人の書(名号及び融通)も保存されている[2]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g 『日本歴史地名大系. 第30巻 (奈良県の地名)』 (平凡社 1981年) p.514
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 奈良市史編集審議会編『奈良市史 社寺編』、吉川弘文館、1985、p.168
  3. ^ a b c d e 高林寺略縁起
  4. ^ a b c 奈良坊目拙解

参考文献関連[編集]

  • 『日本歴史地名大系. 第30巻 (奈良県の地名)』 (平凡社 1981年) p.514
  • 奈良市史編集審議会編『奈良市史 社寺編』、吉川弘文館、1985、p.168

関連項目[編集]