高松裁判事件

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高松裁判事件(たかまつさいばんじけん)とは、被差別部落出身者であることを隠して女性と同棲した男性が誘拐罪逮捕され、1933年高松地裁で懲役刑を受けた事件。高松事件高松差別裁判事件高松地裁差別裁判事件などとも呼ばれる。

概要[編集]

1932年12月中旬、香川県香川郡鷺田村(現・高松市)馬場部落の山本雪太郎と久本米一という若者が、岡山へ屑鉄を買いに出かけた帰り、坂出港に向かう船中で丸亀市カフェ女給の石原政枝と知り合った。山本と久本は父違いの兄弟であった[1]

3人は船から降りた後、飲食店で夕食を共にすることとなり、久本は食事の席で石原に結婚を申し込んだ。石原は、カフェの前借金37円を肩代わりしてくれること、父親から承諾を得ることを条件として求婚に応じた。

久本はその条件を飲み、そのまま石原を伴って高松市の友人宅に赴き、数日間同棲した。しかし約束の37円は調達できなかった。

やがて石原の消息を知った父親が久本らを誘拐罪で刑事告訴。このため久本と山本は香川県警察高松署に逮捕され、予審を経て高松地検に起訴された。このとき、予審判事から「米一、雪太郎は特殊部落の者であるが、それを打明けられたのではないか」と尋ねられた石原は「左様なことは少しも聞かず気にも付きませんでした。警察に行ってはじめて知ったのです」と返答した。

そして予審終結決定書は

「被告(ママ)雪太郎、米一は異母の兄弟にして特殊部落に生まれ(略)、実状を告げるに於ては到底同女の意を動かし難きを慮り、ことさらに之を秘し、(略)自己居住の部落に伴い帰るに於ては、直ちに自己等の身元、実情、業態等が同女に暴露し、同女の翻意を来らすべきを虞れ、自宅に伴い帰るを避けて特に高松市に伴い(略)、同女を誘拐したるものなり」

と述べている。 公判にて、検事は1933年5月25日

「抑々結婚は互いに身元調べをし、身分職業その他総てのことを明しあい、双方納得の上結婚するのが世間の習慣である。しかるに雪太郎、米一は特殊部落民でありながら、自己の身分をことさらに秘し、甘言詐謀を用いて彼女を誘惑したるものなり」

と論告し、懲役1年6月を求刑した。

1933年6月3日高松地裁は久本に懲役1年、山本に懲役10月のそれぞれ実刑判決を下し、2人はそのまま下獄した。

これに対し、全国水平社松本治一郎1933年6月20日北原泰作ら3人の幹部を派遣して現地調査をおこなうと共に「高松差別裁判糾弾闘争委員会」を組織。「差別裁判関係の検事・判事を懲戒免職せよ」「差別裁判を取消せ、然らずんば解放令を取消せ」「差別の賠償として全額国庫負担による徹底的部落施設を獲得せしめよ」などの要求を掲げて差別裁判取消要求請願行進を実施し、福岡市東公園から東京まで1200キロにわたって真相報告の集会を開き、納税兵役の義務の拒否を呼びかけ、署名運動と募金運動を展開した。

これを受け、1933年9月末に司法大臣検事総長が全国の裁判所と検事局に「今後記録、公判時の差別字句の使用、取り扱いに注意するように」との通達を出した。

同年11月には本件を担当した三浦通太裁判長の退任が決定、警察署長は更迭となり、同年12月には担当の白水勝起検事も福知山区検事局に左遷され、服役中の山本と久本は仮釈放となった。

1934年4月21日には担当の白水検事への糺弾大会が白水の転任先である福知山市で開かれ、松本治一郎は検事に自決を要求した。白水はさらに福島県[2]へ左遷された。後年、白水は検事を辞任し、弁護士に転じている。

以後、「差別裁判糾弾」というスローガンは1963年狭山事件でも多用されるようになったが、これに対しては日本国民救援会から

「そもそも「差別裁判」とは、部落出身者たることを秘して結婚した男を誘拐罪で逮捕し、懲役刑にした高松裁判のような事例を言うことは、「差別」のひどさを天皇に直訴した北原泰作らが書いているとおりである。正木ひろし弁護士も、「狭山事件を差別裁判と言わなければならないとしたら、すべての事件が差別裁判だということになる」(七四年一一月一日付朝日新聞)と論じている。彼ら(部落解放同盟)の規定が間違っていることは改めて言うまでもない」[3]

との批判も受けている。

脚注[編集]

  1. ^ 『部落問題・水平運動資料集成』第3巻31頁
  2. ^ 朝田善之助『新版 差別と闘いつづけて』124頁では転勤先が北海道となっている。
  3. ^ 日本国民救援会狭山事件と救援会所収「狭山事件の経過・問題点と我々の態度 日本国民救援会」参照(部落問題研究所『部落問題資料第3集』所収)

参考文献[編集]

  • 三谷秀治『火の鎖 和島為太郎伝』p.225-231(草土文化、1985年)

関連項目[編集]