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靳歙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
靳歙
前漢
信武侯・車騎将軍
出生 不詳
死去 高后5年(紀元前183年
諡号 粛侯
爵位 臨平君→建武侯→信武侯
官位 中涓→騎都尉→車騎将軍
靳亭
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靳 歙(きん きゅう、? - 前183年)は、から前漢にかけての将軍爵位信武侯諡号粛侯劉邦に従って数々の武功を挙げた。前漢建国の功臣にして十八功侯の一人。

経歴

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中涓(侍従)として劉邦に従い、宛朐(冤句、えんく)から軍を起こした[1]

二世2年(紀元前208年)、夏侯嬰と共に済陽を攻め、同年8月、劉邦軍主力の一員として李由軍の撃破に貢献した[2]

二世3年(紀元前207年)3月、の南・啓封の北東で秦軍と戦い、騎千人の将を1人斬り、首級57を挙げ、73人を捕虜とした。この武功で爵位を賜わり、臨平君と号した。同年9月の藍田北の戦いでは[3]、車司馬2人、騎長1人を斬り、首級28を挙げ、57人を捕虜とした。

高祖元年(紀元前206年)正月、漢王に封ぜられた劉邦から建武侯の爵位を賜り、さらに騎都尉となって劉邦に従い三秦平定に貢献した[1]

高祖2年(紀元前205年)11月、別動隊として、おそらくは酈商の配下として隴西・北地方面へ侵攻し[4]、章平(章邯の弟あるいは子)軍を隴西で撃破して隴西6県を平定した。配下の兵も、車司馬、斥候をそれぞれ4人ずつ、騎長12人を斬った。同年4月[5]、劉邦に従って東進し楚と戦って彭城にまで到達したが、漢軍が大敗したため(彭城の戦い)、雍丘に戻り立てこもった。のちに雍丘を去って謀反人の王武らを撃ち、梁を攻略した。漢軍本隊から別れ、邢説の軍を菑南で破り、靳歙自らも邢説の都尉2人、司馬候12人を捕らえ、吏卒4180人を降伏させた。また楚軍を滎陽の東で撃破した。同年8月、漢王から別れて河内に赴き、趙の将軍の賁郝(ひせき[6])の軍を朝歌で撃ち、配下の兵は騎将2人を捕らえ、車馬250匹を鹵獲した。漢王に従い安陽から東を攻めて棘蒲に至り、7県を下した。また分かれて趙の軍を攻め破り、その将司馬2人、候4人を捕らえ、吏卒2400人を降伏させた。

高祖3年(紀元前204年)、食邑4,200戸を賜り、再び漢王に従って邯鄲を攻略した。分かれて平陽を下して守相(留守の宰相[7])を自ら斬り、配下の兵も兵守・郡守各々1人を斬った。を降し、漢王に従って朝歌・邯鄲を攻め、及び分かれて趙軍を撃破し、邯鄲郡6県を降した。軍を敖倉に戻し、成皋の南で項羽軍を破り、楚の糧道を分断した。滎陽から兵を出して襄邑に至り、項冠の軍を魯付近で破った。さらに土地を攻略して東は繒・郯・下邳に至り、南は蘄・竹邑に至った。済陽付近で項悍を撃破した。軍を戻して項羽を陳で攻め破った。別に江陵を平定し、江陵王の柱国、大司馬以下8人を降伏させた。江陵王は靳歙自らが捕らえ、生かしたまま雒陽へ送り、南郡を平定した。漢王と共に陳に赴き、楚王韓信を捕らえた。割符を授かって子孫代々の世襲を許された。食邑4,600戸を賜わり、信武侯と号した。

騎都尉として代攻めに加わり、韓王信を平城の下に攻め、軍を東垣に戻した。功績があり、車騎将軍に任ぜられ、梁・趙・斉・燕・楚の車騎を統率した。陳豨の丞相である候敞(こうしょう[8])を撃ち、曲逆(くぎゃく)を降した。謀反を起こした英布の討伐戦でも功があり、食邑5,300戸に加増された。

その戦歴は、自ら挙げた首級90、捕虜にすること132人、漢軍本隊から分かれて敵軍を破ること14回、城を降すこと59回、郡・国各々1、23県を平定し、王・柱国各々1人、2,000石以下500石に至る39人を捕らえた。

高后5年(紀元前183年)、死去。粛侯と諡された。子の靳亭が代わって侯となったが、21年後の文帝後元3年(紀元前161年)、領民を規定を超えて使役したため侯を剥奪され領地を没収された。

評価

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司馬遷は『史記』列伝傅寛と靳歙を並べ「この二人は高祖劉邦に従って山東より兵を起こし、楚軍を攻めて将を討ち取り軍を撃破して城を降すこと数十回に及んだが、なお危険や恥辱に遭わなかった。天の賜物である[9]」と論賛した。

前漢王朝の礎を築いた功臣一覧の功績と家系録を記した『漢書』高恵高后文功臣表では序列第11位に列せられている。

以下は後漢の歴史家・文学家として名高い班固の詩文集『班蘭台集』に記載されている靳歙を讃えた頌詩である。

斤斤將軍,忠信孔雅,出身六師,十二四旅,折衝扞難,遂寧天下,金龜章德,建號傳後。
斤斤たる将軍、その忠信は大いに気高く、天子の軍より身を起こし、数多の部隊を統率した、敵の攻勢を退け難局を払い、ついに天下を安んじた、金の亀鈕が徳を示し、その号を打ち立て後世に伝えられる。

脚注

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  1. 1 2 小竹『史記』, p.319
  2. 陳 (2012), p.92
  3. 陳 (2012), p.93
  4. 陳 (2019), p.18
  5. 当時使用されていた暦法顓頊暦)では10月が年始である。
  6. 司馬遷 著、加藤繁公田連太郎 訳『史記列伝 二冨山房、1941年、385頁。doi:10.11501/1917868
  7. 小竹『史記』, p.320
  8. 三家注・傅靳蒯成列伝39 索隠小顔云侯敞」
  9. 小竹『史記』, p.322

参考文献

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