青山忠門
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正15年(1518年)/永正8年(1511年) |
死没 | 元亀2年4月7日(1571年4月30日)/天正3年5月6日(1575年6月14日) |
別名 | 藤蔵、藤八郎、藤右衛門、喜大夫(通称)、忠義 |
主君 | 松平広忠、今川義元、徳川家康 |
氏族 | 青山氏 |
父母 | 青山忠世 |
兄弟 |
忠門、東久坊宗玄室、重成、忠重、 青木俊成 |
妻 | 卯野氏 |
子 | 忠成 |
青山 忠門(あおやま ただかど)は、戦国時代の武将。三河松平氏の家臣。
略歴
[編集]青山氏は、上野国の出身で、忠門の時に近江国から三河国へ移り、額田郡百々村を領して松平広忠に仕えたという。第二次小豆坂の戦いにも参戦した。広忠死後は一時、今川義元の麾下に入るが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは広忠の子・元康(のちの徳川家康)の寄騎となり、義元死後は元康に帰属する。永禄6年(1563年)、三河一向一揆の際も元康側につき、岡崎城を守備した。
死に関しては諸説あり、元亀2年(1571年)甲斐武田氏の三河侵攻に際しては良く防戦したが、その時の傷が元で死亡したという説と、天正3年(1575年)、武田氏との戦いで討ち死にしたという説がある。1571年説では享年54、1575年説では享年65。
子の忠成は徳川氏に仕え、江戸期を通じて譜代大名として列せられた。
参考文献
[編集]- 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典』 1990年 新人物往来社 ISBN 978-4404017529
- 『寛政重修諸家譜』第12巻